貿易の範囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 02:59 UTC 版)
650年から1900年までの間に、1000万から1800万人のアフリカ人がアラブ人奴隷商人によって奴隷にされ、紅海やインド洋、サハラ砂漠を越えて運ばれたと歴史家は推測する 。アラブ人が歴史書で使う用語は、「人種的」用語よりも文化的用語をしばしば表している。ティップー・ティプのような「アラブ」奴隷商人の多くは、奴隷にされ売られる「アフリカ人」と区別がつかない。アラブ人の奴隷貿易の性質により、厳密な実数を知ることは不可能である。 同様に、アラブ人はヨーロッパ人も奴隷にした。Robert Davis によれば、16世紀から19世紀の間に100万人から125万人のヨーロッパ人が、オスマン帝国配下のバルバリア海賊によって捕らえられ、奴隷として売られた(オスマン帝国の奴隷制en:Slavery (Ottoman Empire)参照) 。こうした奴隷は、主にイタリアやスペイン、ポルトガルといった地中海沿岸諸国の村々で捕らえられた者だったが、フランスやイングランド、オランダ、アイルランド、更にはアイスランドといった北ヨーロッパの遠隔地出身の者も存在した。 こうした攻撃の威力は国土を荒廃させた(オスマンの包囲と上陸の一覧en:List of Ottoman sieges and landingsを参照)。フランスやイングランド及びスペインはそれぞれ数千の船隻を喪失し、スペインとイタリアの長い海岸線はほとんどが住民によって完全に放棄された。19世紀まで海賊の襲撃によって居住は阻害された。 周期的なアラブ人の襲撃遠征は、キリスト教のイベリア王国を破壊し戦利品や奴隷を持ち帰るため、イスラム教イベリアから送られた。例えば1189年のリスボンへの襲撃で、ムワッヒド朝カリフのヤアクーブ・マンスールは3000人の女性と子供を捕虜とし、彼のコルドバ知事は1191年のシルヴェスへの次の攻撃で3000人のキリスト教徒奴隷を獲得した 。 オスマン帝国のヨーロッパでの戦争en:Ottoman wars in Europeやタタールの襲撃en:Mongol and Tatar states in Europe も多くのヨーロッパ人キリスト教徒奴隷をイスラーム世界へもたらした。 「オリエント」または「アラブ人」の奴隷貿易はしばしばイスラーム教の奴隷貿易と呼ばれる。しかし、宗教的義務は奴隷制の推進力ではなかったと世界史を専門とするパトリック・マニング (en:Patrick Manning (Professor)) 教授は主張する。しかし、もし非イスラム教徒の住民がイスラーム教の受け入れまたはジズヤ(保護/従属税)の支払いを拒めば、その住民はイスラーム教徒の「ウンマ」(国家)と戦争状態にあると見なされ、非イスラーム教徒の住人から奴隷を取ることはイスラーム法的に合法となった。「イスラームの貿易」または「イスラーム世界」という用語の用法は、アフリカをイスラームの外側として扱ったり、イスラーム世界の一部を無視しているとして、幾人かのイスラーム教徒によって論争となっていた(イスラーム教徒人口による国の一覧en:List of countries by Muslim populationを参照)。アフリカのイスラーム教宣教者は頻繁に、潜在的な奴隷の蓄積を減らす可能性があるとして、改宗に対する警告的な態度を表した 。 西欧からの視点では、この主題は「東方奴隷貿易」と混ざり合い、それは中世においては二つの主要な交易路に成り立っていた。 マグリブとマシュリクの砂漠を横断する陸路(サハラ横断交易路) 紅海とインド洋を通過するアフリカ東部への海路(東方交易路) アラブ人の奴隷交易はイスラーム教以前に始まり、1000年以上も続いた。 アラブ人商人は現在のケニアやモザンビーク、タンザニア、南スーダン、東アフリカのエリトリアやエチオピア等からアフリカ人を、インド洋を越えて現在のイラクやイランやクウェートやソマリアやトルコなど中東の諸地域 、南アジア(主にパキスタンとインド)に運んだ。新世界への大西洋奴隷貿易と違い、アラブ人はアフリカ人奴隷をイスラーム教徒世界へと供給し、最盛期にその範囲は大西洋(モロッコやスペイン)からインド洋や東シナ海への3大陸に及んだ。
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