貿易の最盛期、1880年–1900年
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「氷貿易」の記事における「貿易の最盛期、1880年–1900年」の解説
人工氷の製造は1880年になっても未だ大規模に行われているとはいいがたかったが、19世紀の終わりにかけて技術的な向上があり、天然氷と競争できる価格で生産できるようになったため生産量が拡大し始めた。とくに始めは、天然氷が輸送費などでコスト的に不利になる遠隔地で製氷機が定着しだした。オーストラリアおよびインドではこの頃すでに人工氷のほうがシェアが高く、1880年代から90年代にはブラジルでも製氷機がつくられはじめて徐々に輸入より国内生産のほうが増え始めた。アメリカでも南部でさらに多くの製氷機が導入されていった。長距離の輸送を行う会社は、冷蔵に必要な氷を大量に仕入れて使っていたが、需要が急に高まったときにも対応できたりストックの必要がないという利点から、重要な中継地点では現地で製造した氷を使うようになっていた。1898年以降、イギリスの水産会社も釣った魚を冷やす氷には人工氷を使うようになった。 そして技術革新は、氷を運ぶ手間が省けるよう、直接冷蔵のできる部屋ないし倉庫をつくるという方向に向かい始めた。1870年代には大西洋を横断する航路をとる船がわざわざわ氷を積まなくても済むようにしたいという意識が高まった。テリエは、蒸気船ル・フリゴリフィックのために冷蔵の可能な船倉を手がけたが、この最初の冷蔵船は無事アルゼンチンからフランスへ牛肉を輸出することができた。グラスゴーを拠点にするベルたちの会社は、ゴーリエの空気圧縮方式による船舶用の冷蔵室(ベル-コールマン式デザインと呼ばれた)の製作に資金提供を行った。このときうまれた技術はすぐにオーストラリア、ニュージーランド、アルゼンチンとの貿易に利用されはじめた。他の業界でもそれにならいはじめる。カール・フォン・リンデは醸造業者が機械によってビールを冷却する手段を開発し、天然氷への依存から脱却した。冷蔵倉庫や食肉加工の分野でも冷却装置に頼ることのほうが多くなった。 人工氷との競争が始まったにも関わらず、天然氷はなおも北アメリカとヨーロッパの経済にとって不可欠であった。これらの国では生活水準が向上し、需要そのものが拡大していたのである。1880年代は氷の需要がかつてないほど高まり、天然氷の貿易は拡大を続けていた。ハドソン川流域とメイン州だけで400万トン近い氷が常時ストックされており、ハドソン川では岸辺に沿って135前後の巨大な貯氷庫が並び、2万人の従業員が働いていた。メイン州から南方へ氷を輸送する船舶は1,735艘にのぼり、ケネベック川に沿って36社もの業者が事業を展開し、需要に応えた。ウィスコンシン州の湖でも、中西部に氷を供給するために生産体制がつくられはじめた。1890年には、再び氷飢饉が東部を襲った。ハドソン川ではまったく氷がとれなかったため、実業家たちは氷が無事できていたメイン州に殺到した。投資家たちにとっては不幸なことに、翌年の夏は非常に寒く、需要も冷え込んだことから、多くの経営者が大損をだした。この時期にアメリカ全土では9万人と25,000頭の馬がこの貿易に携わっており、2,800万ドル(2010年の6億6000万ドル)の資本が氷事業に投入された。 ノルウェーにおける貿易は1890年代にピークを迎え、1900年までに年間100万ショートトンの氷が輸出されていた。イギリスで大企業となっていたレフトウイッチの会社は大量にこれを輸入して、1000ショートトンの氷を倉庫に常時ストックしていた。オーストリアもノルウェーに続いてヨーロッパ市場に参入した。ウイーン・アイス・カンパニーは19世紀の終わりには天然の氷をドイツに輸出していた。 アメリカでは世紀末にかけて氷業者の合併が相次ぎ、ノルウェーなどの競合業者はこうしたカルテルじみた動きを非難した。メイン州出身の実業家チャールズ・W・モースは、不透明な金銭の流れを介してニューヨーク・アイス・カンパニーとニューヨークのコンシューマーズ・アイス・カンパニーなどの経営権を握り、1890年には二社をコンソリデイテド・アイス・カンパニーとして統合した。さらにモースは強力なライバルであったニューヨークのニッカボッカー・アイス・カンパニーを1896年に買収し、この地方から毎年収穫されるおよそ400万トンもの氷を自由に動かせるようになった。1899年にモースはわずかとなったライバル企業をアメリカン・アイス・カンパニーに合併し、アメリカ北東部における天然氷・人工氷の供給と流通を完全に掌握した。西海岸では、エドワード・ホプキンスがサンフランシスコにユニオン・アイス・カンパニーを設立すると、周辺のさまざまな関連企業を統合して、新たな巨大アイス・カンパニーをつくりあげた。それとは対照的に、イギリス市場では競争が苛烈なままであり、価格も比較的抑えられていた。 日本においては、1884年(明治17年)から東京製氷が人工氷の販売を開始した。天然氷と人工氷は激しい販売競争を繰り広げ、品質に関するネガティブキャンペーンを行った。人工氷は薬品を使用した有害なものである、という噂が広まって人工氷は苦戦を強いられたが、価格が天然氷より1割ほど安かったことに加え、品質を証明する努力によって次第にシェアを広げていった。1887年(明治20年)に皇太子(後の大正天皇)が東京製氷の工場を見学し、氷の中に花を入れた観賞用の花氷を持ち帰ったことから、宮内省への献上が行われるようになった。そして宮内省の御用指定工場となり、宮中への納入は機械製氷に限ると布告されたことから、東京製氷は大宣伝を行って、1897年(明治30年)には人工氷が天然氷を追い抜くことになった。
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