山丹交易改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 21:05 UTC 版)
文化4年(1807年)に蝦夷地が江戸幕府の直轄領となり、それまでのアイヌの山丹人に対する負債が表面化し問題となった。従来の交易が、山丹人が交易品を貸し付けて、翌年にそれに見合う毛皮を取り立てる方式を採用しており、累積債務などが要因で、山丹人は借金のかたに樺太アイヌを山丹人の居住域に連れ去り下人として使役したり、家財を奪い取るなど軋轢が強まっていたからである。これは当時の東アジア地域では普通に見られた習慣だが、最上徳内などは、この負債はアイヌが松前藩からの山丹渡来品の催促や強要に応えるために、無理な買物をしたためだとも認識していた。文化6年(1809年)に松前奉行支配下役元締の松田伝十郎が負債を調査し、アイヌが自力で返済不能の部分を江戸幕府が肩代わりするよう取りはからった。これにより負債は完済するが、その一方、交易は白主会所扱いの直営となり、アイヌは従来のような来航する山丹人との直接交易を禁じられた。同時に、幕府(松前奉行)は、アイヌの大陸・黒竜江下流域の交易地デレンへの渡航と貿易(朝貢交易)も禁じた。 また、この改革以降、白主会所で行われる山丹交易は、山丹人にとって事実上江戸幕府に対する朝貢の場となった。 なお、間宮林蔵により口述され、村上貞助によって筆録されて文化8年(1811年)に幕府に提出された『東韃地方紀行』中巻(「デレン在留中紀事」)には、黒竜江下流のデレンの集落に清朝によって設けられた「満州仮府」における山丹交易や北方諸民族が清朝の役人に進貢するようすが詳細な解説文やイラストレーションによって描写されている。 文政5年(1822年)、蝦夷地は松前藩に復領し、安政元年(1855年)にまた幕府直轄領となっても交易は引き継がれた。間宮海峡の対岸では、1860年に清国とロシア等の結んだ不平等条約のひとつ北京条約により山丹人の住む黒竜江下流が割譲されロシア領沿海州となるが、慶応3年(1867年)まで山丹人が白主会所に来航した記録がある。山丹交易は幕府崩壊までつづいたが、1868年成立の明治政府によって廃止された。現在も、黒竜江下流域にはアイヌの子孫を名乗る者もいるが、事実であれば、彼らは山丹人に連れ去られた者たちの忘れ形見であろう。
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