第1期幕領時代(1802年 - 1821年)
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前期奉行の治世中には寛永通寳鉄銭が広く流通し、高田屋嘉兵衛による択捉航路の開設(北前船も参照)及び近藤重蔵らによる新道開削等がおこなわれ、間宮林蔵らの樺太調査による間宮海峡の確認や、松田伝十郎の山丹交易改革でアイヌの累積債務の支払えない分を肩代わりした。 アダム・ラクスマン来航をはじめとするロシアの南下政策を警戒した幕府は、北辺警固のため松前藩の領地であった東蝦夷地(北海道太平洋岸および北方領土や得撫郡域)を寛政11年(1799年)に仮上知。そして、享和2年(1802年)2月、永久上知の上箱館に蝦夷奉行が設置され、戸川安論・羽太正養の2名が任命され、うち1名が1年交代で箱館に駐在した。同年5月箱館奉行に改称する。文化元年(1804年)宇須岸館(別名・河野館または箱館)跡(現在の元町公園)に奉行所を置き、これに伴い、同地にあった蝦夷地総社・函館八幡宮を会所町(現八幡坂の上)に遷座した。文化2年(1805年)2月に斜里山道(斜里越)を開削した八王子千人隊千人頭原胤敦が箱館奉行支配調役に任ぜられた。原胤敦と配下同心は文化5年(1808年)に八王子に戻る。文化4年(1807年)、文化露寇を機に、和人地及び西蝦夷地(北海道日本海岸とオホーツク海岸および樺太)も上知、箱館奉行を松前奉行と改め、松前に移転した。また、遠山景晋(遠山景元の父)が西蝦夷地検分を行い、最上徳内が8度目の蝦夷地赴任となったのも、第一次幕領期の文化4年ころであった。樺太は、文化6年(1809年)に西蝦夷地から分立し北蝦夷地に改称された。 ロシアの脅威が収まった文政4年(1821年)、和人地及び全蝦夷地を松前氏に還付し松前奉行は廃止された。
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