千島・樺太交換条約とは? わかりやすく解説

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ちしまからふと‐こうかんじょうやく〔‐カウクワンデウヤク〕【千島樺太交換条約】

読み方:ちしまからふとこうかんじょうやく

樺太千島交換条約


樺太・千島交換条約

(千島・樺太交換条約 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/09 04:42 UTC 版)

樺太・千島交換条約(からふと・ちしまこうかんじょうやく)は、1875年(明治8年)5月7日日本ロシア帝国との間で1854年の日露通好条約で雑居・共有としていた樺太(サハリン)で頻発していた日露両国人の紛争を無くすために国境を確定させた条約[2]。樺太に対する日本の領有権と当時のロシア領千島列島(北千島列島)とを交換した内容であり[2][3]サンクトペテルブルク署名され、同年8月22日東京にて批准され締約された。




「樺太・千島交換条約」の続きの解説一覧

千島樺太交換条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 00:46 UTC 版)

アレクサンドル・ゴルチャコフ」の記事における「千島樺太交換条約」の解説

1855年日露和親条約以来江戸幕府とも領土交渉にあたっていたが、幕府樺太領有権主張したため、交渉はまとまらなかった。幕府ロシア競うように樺太大量移民送り込みはじめたので、現地日本人ロシア人アイヌ人三者間の摩擦増えて不穏な情勢になった明治維新後、こうした状況緩和のため日本政府樺太千島列島交換の線で交渉行いロシア側がこれに応じた結果1875年ゴルチャコフと駐露日本公使榎本武揚の間で千島樺太交換条約が締結される運びとなった

※この「千島樺太交換条約」の解説は、「アレクサンドル・ゴルチャコフ」の解説の一部です。
「千島樺太交換条約」を含む「アレクサンドル・ゴルチャコフ」の記事については、「アレクサンドル・ゴルチャコフ」の概要を参照ください。

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