千島探検とは? わかりやすく解説

千島探検

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 14:30 UTC 版)

白瀬矗」の記事における「千島探検」の解説

明治14年1881年4月教導団騎兵科卒業し輜重兵科転科して、陸軍輜重兵伍長として仙台鎮台輜重兵第2大隊付となり、仙台赴任した明治15年1882年)、宇都宮行われた演習騎兵として参加し児玉源太郎出会った明治20年1887年)、仙台市二日町海産問屋の娘「やす」と結婚した陸軍輜重兵曹長、下副官進級し明治25年1892年)、予備役編入され士官適任証を授与された。 明治23年1890年)、仙台児玉源太郎再会し北極探検への思い伝えた児玉に「書生論空理空論だ」と断言されたが、「北極探検志すなら、まず樺太千島探検をするように」と薦められた。 児玉助言に従って千島探検を志すようになり、明治26年1893年)、郡司成忠大尉率いる千島探検隊(千島報效義会)に加わる。探検隊千島到着するまでの間に、暴風雨による遭難19名の死者出したが、千島列島到着した捨子古丹島に9名、幌筵島に1名の隊員越冬隊として残し白瀬郡司ら7名は、同年8月31日最終目的地である占守島到着、同島で越冬した明治27年1894年)の5月幌筵島1人壊血病死亡した。さらに6月占守島寄港した軍艦磐城」から「捨子古丹島の9名の内4名死亡、5名行方不明」との情報伝えられる。 そして、郡司は、軍からの強い要請により、軍艦磐城」で帰還することになった郡司当初全員帰還させるつもりであったが、郡司の父である幸田成延が、千島開発途切れさせないために自分占守島に残ると強硬に主張した郡司はこれを翻意させるため、白瀬に父・成延の代わりとして占守島残留するよう要望した。 白瀬最終的に郡司帰還承諾し2年目越冬をした。しかし、白瀬を含む4人が壊血病になり、白瀬を除く3人は死亡した壊血病にならなかった2人のうち1人ノイローゼとなり、白瀬病気による体力低下から食料調達不可能となり、飢餓のため愛犬射殺してその肉を食べた白瀬らは明治28年1895年8月救助された。白瀬は、過酷な状況追い込まれたことと、越冬のため日清戦争従軍できなかったことへの後悔から、郡司親子恨み、これ以後郡司白瀬の仲は極端に悪化する明治30年1897年)、後備陸軍輜重兵少尉任官明治33年1900年)、国家事業として千島経営帝国議会請願10万円の予算通過したが、交付されないので密漁船でアラスカ渡り、6か月間を北緯70度で過ごした明治37年1904年)、日露戦争勃発により、同年6月召集され第8師団衛生予備廠長となり、10月出征した出征明治37年10月 - 明治39年1月)。明治38年1905年1月黒溝台会戦右手と胸負傷し同年11月陸軍輜重兵中尉進級した

※この「千島探検」の解説は、「白瀬矗」の解説の一部です。
「千島探検」を含む「白瀬矗」の記事については、「白瀬矗」の概要を参照ください。

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