千島探検
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明治14年(1881年)4月、教導団騎兵科を卒業し、輜重兵科に転科して、陸軍輜重兵伍長として仙台鎮台・輜重兵第2大隊付となり、仙台に赴任した。明治15年(1882年)、宇都宮で行われた大演習に騎兵として参加し、児玉源太郎と出会った。 明治20年(1887年)、仙台市二日町の海産問屋の娘「やす」と結婚した。陸軍輜重兵曹長、下副官と進級し、明治25年(1892年)、予備役に編入され士官適任証を授与された。 明治23年(1890年)、仙台で児玉源太郎と再会し、北極探検への思いを伝えた。児玉に「書生論的空理空論だ」と断言されたが、「北極探検を志すなら、まず樺太や千島の探検をするように」と薦められた。 児玉の助言に従って千島探検を志すようになり、明治26年(1893年)、郡司成忠大尉が率いる千島探検隊(千島報效義会)に加わる。探検隊は千島に到着するまでの間に、暴風雨による遭難で19名の死者を出したが、千島列島に到着した。捨子古丹島に9名、幌筵島に1名の隊員を越冬隊として残し、白瀬・郡司ら7名は、同年8月31日、最終目的地である占守島に到着、同島で越冬した。 明治27年(1894年)の5月、幌筵島の1人が壊血病で死亡した。さらに6月に占守島へ寄港した軍艦「磐城」から「捨子古丹島の9名の内4名死亡、5名行方不明」との情報が伝えられる。 そして、郡司は、軍からの強い要請により、軍艦「磐城」で帰還することになった。郡司は当初、全員を帰還させるつもりであったが、郡司の父である幸田成延が、千島開発を途切れさせないために自分が占守島に残ると強硬に主張した。郡司はこれを翻意させるため、白瀬に父・成延の代わりとして占守島に残留するよう要望した。 白瀬は最終的に郡司の帰還を承諾し、2年目の越冬をした。しかし、白瀬を含む4人が壊血病になり、白瀬を除く3人は死亡した。壊血病にならなかった2人のうち1人はノイローゼとなり、白瀬も病気による体力の低下から食料の調達が不可能となり、飢餓のため愛犬を射殺してその肉を食べた。白瀬らは明治28年(1895年)8月、救助された。白瀬は、過酷な状況に追い込まれたことと、越冬のため日清戦争に従軍できなかったことへの後悔から、郡司親子を恨み、これ以後、郡司と白瀬の仲は極端に悪化する。 明治30年(1897年)、後備陸軍輜重兵少尉に任官。明治33年(1900年)、国家事業として千島の経営を帝国議会に請願、10万円の予算が通過したが、交付されないので密漁船でアラスカに渡り、6か月間を北緯70度で過ごした。 明治37年(1904年)、日露戦争勃発により、同年6月、召集され第8師団衛生予備廠長となり、10月に出征した(出征は明治37年10月 - 明治39年1月)。明治38年(1905年)1月、黒溝台会戦で右手と胸を負傷し、同年11月、陸軍輜重兵中尉に進級した。
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