出発までの経緯
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1892年(明治25年)、郡司は千島移住趣意書を海軍当局へ提出する。しかし、海軍上層部はこれを許可しなかった。同時に郡司が希望していた、小艦「露天号」の貸下げも軍は拒否している。この理由について綱淵謙錠は、ロシアに対する遠慮があって、海軍が公式に千島へ向かうことはできなかったのではないかと推測している。しかし郡司は諦めず、海軍大尉を退いて予備役となり、民間人として千島を目指すことにした。 しかし、予定していた船の手配ができず、かといって自前で予定と同等の船を用意できるほどの資金も郡司には無かった。悩んだ末に、横須賀鎮守府で不要になった短艇を払い下げてもらい、これで千島へ向かうことにした。郡司は海軍兵学校時代に東京湾内短艇巡行を実行した(これはその後海軍兵学校の恒例行事となり、校舎が江田島に移ってからも続くことになった)経験があるなどボートの操作には慣れており、他の拓殖希望者も元海軍の人間であることからボート技術は身につけていたとはいえ、これは危険な計画であった。しかし郡司以外のメンバーの中には、すでに家族の説得や勤務先の退職をして千島移住の準備をしていた者も多く、計画をあまり延期することもできないという事情があったのである。 こうして、窮余の策とはいえ船の算段もついた郡司は、1893年(明治26年)2月22日、後に「千島拓殖演説」と呼ばれる講演を行ない、その翌々日には土方久元宮内大臣から拓殖隊に「報效義会」という名が与えられる。これらが新聞などのメディアで報じられるとその反響は大きく、同年シベリア横断を実行した福島安正とともに国民の人気を集めるようになった。添田唖蝉坊は自伝『唖蝉坊流生記』の中でこの二人を歌った演歌がヒットしたことについて語っている。また、「福島中佐・郡司大尉遠征双六」が売り出されたという記録もある。 これら世論の高まりによって、岩崎弥太郎や黒田清隆、谷干城といった面々を始めとして寄付金は当初の予定額を超えるほどに集まり、また入会希望者も続々と増えることになった。しかし報效義会には入会は海軍出身者に限るという内規があり、このため岡本監輔(かつて日本人として初めて樺太一周に成功し、< 1901年(明治24年):要修正 >には「千島義会」を結成して千島探検を試みたが船の沈没で失敗した)も入会を断られているが、ここで陸軍出身の白瀬矗は「自分が海軍出身者でないためボート技術に不安があるというなら、陸行と渡し船を使って独自に千島へ渡るので迷惑はかけない」と熱心に入会を希望した。最終的に郡司はその熱意に負け、例外として白瀬には入会を許し、白瀬らは陸行の後に北海道で合流することになった。また、もう一人の例外として、東京朝日新聞社の横川勇次(後の横川省三)が特派記者として同行することとも決まり、3月14日は東京美術学校で郡司の弟である幸田露伴らにより送別会が開かれ、3月20日には隅田川で出発のセレモニーが行なわれることになった。 ところが、ここに来て、郡司の行動に対しては批判も出てくることになる。例えば、『大日本教育新聞』は「堅牢な帆船を手に入れられる程度には資金が集まったにもかかわらず、ボートでの航行という危険な計画を変えないのでは、千島拓殖ではなくボートでの冒険の方が目的のようではないか」という内容の批判を行なった。この批判に対して郡司は、その手記に「資金乏しき為、已むを得ず企てたる短艇がはからずも壮図なりとして賛成せられたるより得たる此の資金を以て、帆船を賃傭するが如きは、余の大いに恥づる所なり」と記している。また、川村純義中将は、「探検が成功していないうちに賞賛を受けるのは褒められることではない。己を吹聴するのではなく、ひっそりと出発すべき」という内容の手紙を郡司に送った。郡司がこれに対してどう考えたかということについて手記などは残っていないが、どう考えていたにせよ、世の注目は郡司に集まりすぎるほど集まっており、もはや計画は変更できないところに来ていた。
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