出発 1763年7月-11月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/13 17:32 UTC 版)
「モーツァルト家の大旅行」の記事における「出発 1763年7月-11月」の解説
1763年7月9日の旅の始まりは幸先の悪いものとなった。最初の日に馬車の車輪が壊れ、修理が行われるのに24時間の足止めを食うことになった。レオポルトはこの遅れを逆手に取り、近くにあったヴァッセンブルク(英語版)の教会へとヴォルフガングを連れて行った。レオポルトによると、ヴォルフガングはオルガンの足鍵盤をあたかも数か月特訓してきたかのように弾きこなしたという。ミュンヘンでは連夜にわたり選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフの御前で演奏を披露し、この働きに対してはレオポルトの年収の半分に相当する354グルテン(またはフロリン)が支払われた。次なる目的地はレオポルトの母がいるアウクスブルクであったが、レオポルトと疎遠になっていた彼女はこの街で開かれた3回の演奏会のいずれにも出席することを拒んだ。続いて一家はシュヴェツィンゲンとマンハイムの宮殿を訪れ、プファルツ選帝侯カール・テオドールとその妃に演奏を披露、驚きをもって迎えられた。 次に長く滞在したのはマインツである。選帝侯は病に伏せていたが、一家は町で3回の演奏会を催して200グルテンの収入を得た。マインツを後にした彼らはマイン川を船で遡ってフランクフルトへと至り、ここでも公開演奏会を行った。フランクフルトで最初の演奏会には当時14歳のゲーテが出席しており、彼はずっと後になってから「かつらを被り帯刀した少年だった。」と回想している。こうした演奏会の告知広告には「少女」が「最難曲を最高の熟達により」演奏し、一方「少年」がヴァイオリンで協奏曲を演奏するのに加えて鍵盤を完全に布で覆ったまま演奏するというウィーンでの芸当の再現をする、とある。そうしてさらに「彼は求められれば何でもその場で即興演奏します。フォルテピアノだけでなく、オルガンでも(中略)どの調性でも、最も難しいものでさえも。」 船旅を再開した一家はコブレンツ、ボン、ケルンを訪れた。その後西へと進路を取りアーヘンに到着すると、プロイセン王フリードリヒ2世の妹であるアンナ・アマリアの前で演奏を行った。アンナはレオポルトにベルリンへと向かう旅程をキャンセルするよう説得を試みたが、レオポルトは折れなかった。「彼女は金を持っていなかった」と彼はハーゲナウアーに書き送っている。演奏に対する彼女からの報酬はキスだったという。「だが、宿屋の主人も郵便局長もキスでは満足しようがないだろう。」次に彼らが向かったのは、現在ではおおよそベルギーとルクセンブルクとなっているネーデルラントであり、地域の中心都市であったブリュッセルには10月5日に到着した。ここではカール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン総督からの召集がかかるまで数週間待機し(「総督は狩猟をして、食べて、飲んでばかりだった。」とレオポルトはハーゲナウアーに書き送った)、一家は11月7日に大演奏会を開催した。15日には次なる目的地であるパリを目指し、彼らは旅路に就いている。 ブリュッセルでの空白期間の間に、ヴォルフガングの興味は演奏から作曲へと移り始めていた。10月14日にはハープシコードのための『アレグロ』を完成し、これが続くパリでの滞在中に書き上げられる『ヴァイオリンソナタ第1番』K.6に転用されることになる。
※この「出発 1763年7月-11月」の解説は、「モーツァルト家の大旅行」の解説の一部です。
「出発 1763年7月-11月」を含む「モーツァルト家の大旅行」の記事については、「モーツァルト家の大旅行」の概要を参照ください。
- 出発 1763年7月-11月のページへのリンク