報效義会への批判
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1904年(明治37年)1月、日刊新聞『二六新報』は、「北海の惨雲・郡司大尉の罪悪」というタイトルで、郡司の批判記事を連載(全47回)した。その内容は、郡司の人間性や、会員あるいはその家族に対する態度などといった、指導者としての資質に欠ける部分を糾弾する内容のものであり、綱淵謙錠はこれを「現在からみて、数字や人名、あるいは事件の解釈などに、間違いや誤解ないし認識不足と思われる部分が少なくないことは確かであるが、これらの取材先がもっぱら旧報效義会員と思われるふしがあり、かれらの怨嗟の声を生まの形で集めようとしている新聞社の姿勢が伝わってくることも事実である」と評している。日露開戦直前という世の中にあってこのキャンペーンはあまり国民の話題にはならなかったが、しかし会員の中に不満を抱くものが出ていたことは事実であった。例えば、郡司が私腹を肥やしているという疑惑(これは、議会には経理役が特に居らず、会計がいわゆるドンブリ勘定であったことに由来する)を抱き、島を脱出して郡司の弾劾演説を開く者もいたという。郡司はこの演説を行なった者たちを会から除名したが、これは会の中に不穏な空気を産むこととなった。 また、このキャンペーンの以前から郡司批判を続けていた人物に、第一次報效義会の千島拓殖に参加していた白瀬矗がいる。白瀬は、第一次拓殖から帰還後に報效義会を脱会していた。頼まれた末の越冬が悲惨なものであったことと、その越冬によって日清戦争(1894年7月 - 1895年4月)に参加することができなかったことで、白瀬は郡司親子を深く恨むようになっていたのである。1897年(明治30年)、白瀬は自身の千島での体験をまとめた『千島探検録』を出版しているが、その中で、「局外者たる幸田成延」が千島に来たことを「牝鶏のあしたするは家の亡ぶなり」と強く批判し、「矗は軍人として非常なる損害を蒙るに至つた」と記しているほどであった。また、1900年(明治33年)には、「千島義勇警備田漁兵設置ノ件」を政府に請願している。これは、私的事業によってではなく政府の手で千島を開発するべきだとする意見書であり、政府が最終的に容れなかったとはいえ、郡司・報效義会にとっては好ましからざるものであった。 なお、このような経緯と、白瀬の遺品の中に「北海の惨雲」のスクラップがあったことや、「北海の惨雲」の中に白瀬に直接取材をしていると思しき記述があることななどから、白瀬がこのキャンペーンに関わっていたのではないかという推測もある。
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