報效義会への批判とは? わかりやすく解説

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報效義会への批判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:55 UTC 版)

郡司成忠」の記事における「報效義会への批判」の解説

1904年明治37年1月日刊新聞二六新報』は、「北海の惨郡司大尉罪悪」というタイトルで、郡司批判記事連載(全47回)した。その内容は、郡司人間性や、会員あるいはその家族対す態度などといった、指導者としての資質欠け部分糾弾する内容のものであり、綱淵謙錠はこれを「現在からみて、数字人名、あるいは事件解釈などに、間違い誤解ないし認識不足思われる部分少なくないことは確かであるが、これらの取材先がもっぱら報效義会員と思われるふしがあり、かれらの怨嗟の声を生まの形で集めようとしている新聞社姿勢伝わってくることも事実である」と評している。日露開戦直前という世の中にあってこのキャンペーンはあまり国民話題にはならなかったが、しかし会員中に不満を抱くものが出ていたことは事実であった例えば、郡司私腹を肥やしているという疑惑(これは、議会には経理役が特に居らず、会計いわゆるドンブリ勘定であったことに由来する)を抱き、島を脱出して郡司弾劾演説を開く者もいたという。郡司はこの演説行なった者たちを会から除名したが、これは会の中に不穏な空気を産むこととなったまた、このキャンペーン以前から郡司批判続けていた人物に、第一次報效義会千島拓殖参加していた白瀬矗がいる。白瀬は、第一次拓殖から帰還後報效義会脱会していた。頼まれた末の越冬悲惨なものであったことと、その越冬によって日清戦争1894年7月 - 1895年4月)に参加することができなかったことで、白瀬郡司親子深くむようになっていたのである1897年明治30年)、白瀬自身千島での体験をまとめた『千島探検録』を出版しているが、その中で、「局外者たる幸田成延」が千島に来たことを「牝鶏のあしたするは家の亡ぶなり」と強く批判し、「矗は軍人として非常な損害蒙るに至つた」と記しているほどであったまた、1900年明治33年)には、「千島義勇警備田漁兵設置ノ件」を政府請願している。これは、私的事業によってではなく政府の手千島開発するべきだとする意見書であり、政府最終的に容れなかったとはいえ郡司報效義会にとっては好ましからざるものであった。 なお、このような経緯と、白瀬遺品中に北海の惨」のスクラップがあったことや、「北海の惨」の中に白瀬直接取材をしていると思しき記述があることななどから、白瀬がこのキャンペーンに関わっていたのではないかという推測もある。

※この「報效義会への批判」の解説は、「郡司成忠」の解説の一部です。
「報效義会への批判」を含む「郡司成忠」の記事については、「郡司成忠」の概要を参照ください。

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