南北の探検
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農牧社退職後の笹森は、それからの約10年間のうちに日本の周辺を数多く探検し、その記録を残すことになるが、その嚆矢となったものが、まだ農牧社社長の地位にあった1891年(明治24年)4月から6月にかけて行なった「貧旅行」と称する旅行である。これは、民党(当時は、野党のことをこう呼んでいた)が主張していた地租軽減地価修正論の是非を確かめることと、各地の生産力と生活の実態を確かめるために行なわれたものであり、近畿から九州にかけての広い地域が調査されていた。また、この旅行では、各地の史跡(例えば都農神社や能褒野王塚古墳など)について詳細な調査記録を残しており、これは現在でも資料としての有効性があると評価されている。 1892年(明治25年)には、陸羯南の助言を得て、千島列島巡行を行なっていた軍艦磐城に便乗。先行して千島列島探索を行なっていた片岡利和一行と合流し、占守島や幌筵島の探検を行なった。帰還後、この体験と、片岡一行や現地の古老からの聞き取りなどをまとめ『千島探験』を著す。これは井上毅を通して上奏され、天皇も閲覧した。なお、この探検直後に郡司成忠が千島拓殖を行なっているが、笹森は「千島開発は寒冷地を知る地方人が自ら資金を投じて行なうべき」としてこれに批判的であった。 翌1893年(明治26年)4月、千島探検のことで井上馨内務大臣に面会した際に、国内製糖の振興のため、南島の糖業拡大の可能性を探るように依頼された。笹森より以前に沖縄各島の探検調査を行なっていた植物学者・田代安定に教えを請うなど準備を整えた笹森は、同年5月から、琉球諸島を中心とした南西諸島の探検に向かうことになる。なお、当時の沖縄県、特に先島諸島はハブとマラリアが跋扈する危険な辺境の地であり(実際に、例えば田代安定は調査の中でマラリアに罹り、笹森が訪ねた頃はいつ回復するとも知れない病状にあった)、笹森としても死を覚悟しての渡航であった。 沖縄に着いた笹森は、沖縄本島→慶良間諸島→宮古島→石垣島→西表島→与那国島→石垣島→宮古島→沖縄本島と各島を回り、製糖の実情やその他農業・水産業の調査、伝存文書の発掘などを実行しているが、そのかたわらで笹森が見たものは、悲惨な生活に追い込まれている住民の姿であった。当時の沖縄では、琉球王国時代の支配者層への懐柔策として旧慣温存政策が行なわれており、過酷な税金や身分制度が多く残っていたのである。中でも、人頭税が課されていた先島諸島は特に悲惨であり、例えば宮古島で笹森が見たものは、薄暗い織屋に懲役人のように座って、人頭税である先島上布を折り続ける娘たちの姿であった。鳩間島や新城島、黒島などといった小島は、米の栽培ができないにもかかわらず人頭税として米が徴収されていたため、これらの島の住人はサバニで西表島まで出かけて米の耕作をしなければならなかった。この他、小学校も開けないような僻地から学校税が取り立てられることさえあった。その一方で、こうして集められた税金で旧支配者層である士族達は豊かな生活を送っていた。また、八重山ではマラリアの蔓延もひどいものであり、石垣島では半分以上の集落が、西表島に至っては島全体がその巣となっていた。そして、そのような状態であるにもかかわらず、住民は薬代の請求を恐れて病気を言いだすことができず、人々が次々と死んでいくことから島には廃屋があふれていた。 笹森は、このような集落を丹念に訪ねてまわり、その様子を詳細に記録する。東京に帰還後、笹森はこの沖縄行の様子を『南嶋探験』という書に著したが、その中でこの惨状の最大の原因は人頭税だとしてその廃止を訴えた。これは、同年に宮古島で起こった人頭税の廃止運動にも大きく影響を与えている。政府の意向での沖縄行であったにもかかわらず、『南嶋探験』が政府および沖縄県庁の無策を糾弾する内容となっていることは、「笹森は保守的な傾向をもっていたとはいえ、自分の見たものを言葉または文章で裏切らないという点で、その精神はまさしく革新的であった。そのことが今日でもこの書を不朽のものとならしめている」と評価されている。
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