南北の分離独立
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1948年8月15日、ソウルで李承晩が大韓民国の成立を宣言。金日成はこれに対抗し、9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させた。この結果、北緯38度線は占領国が引いた占領境界線ではなく、事実上当事国間の「国境」となった。建国後、南北両政府の李承晩大統領は「北進統一」を、金日成首相は「国土完整」を主張し、共に政治体制の異なる相手国を屈服させることによる朝鮮半島統一を訴えた。 その後、金日成は李承晩を倒し統一政府樹立のため、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンに南半部への武力侵攻の許可を求めたが、アメリカとの直接戦争を望まないスターリンは許可せず、12月にソ連軍は朝鮮半島から軍事顧問団を残し撤退した。1949年1月-4月,ソビエト連邦の電信文書によると、ヴェァシエフスキーがスターリンに送った電報によると、韓国軍は計37回の侵略部隊を派遣し、北朝鮮の辺境都市に侵入した。1949年6月には、アメリカ軍も軍政を解き、司令部は軍事顧問団を残し撤収した。それを受けて北朝鮮は「祖国統一民主主義戦線」を結成した。その後大韓民国では8月12日にジュネーヴ条約に調印し、麗水・順天事件を受けて南朝鮮労働党をはじめとする国内の左翼、反李承晩勢力除去の為に11月に国家保安法が成立するなど、国家としての基盤作りが進んでいた。1949年12月24日に韓国軍は聞慶虐殺事件を引き起こし共産匪賊の仕業とした。 同じ頃、地続きの中国大陸ではソ連の支援を受けていた毛沢東党主席率いる中国共産党が国共内戦に勝利し、1949年10月1日に中華人民共和国が建国された。一方、アメリカからの支援が途絶え敗北した中国国民党の蔣介石総統率いる中華民国は台湾に脱出した(台湾国民政府)。親中派のフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領率いるアメリカは、蔣介石率いる国民党政府を第二次大戦中に熱心に支援していたが、1945年にルーズヴェルトが死去するとともに大統領になったハリー・S・トルーマンは米国が仲介した双十協定やジョージ・マーシャルによる共産党との調停を国民党は破ったと看做して支援を打ち切り、1950年1月5日には中国人民解放軍が国民党を追撃しても台湾に介入しないとする声明 まで発表して台湾に逃げた国民党を見放した。政府内の中国共産党共感者(チャイナ・ハンズ)やスパイの影響も受けていた。
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