南北からの攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:44 UTC 版)
バグラチオン作戦に呼応し、イワン・コーネフ元帥の第1ウクライナ方面軍は、ガリツィア方面に集結したゴットハルト・ハインリツィ大将の第1装甲軍およびヴァルター・ネーリング大将の第4装甲軍による支援行動を阻止するため、7月14日にリヴォフ=サンドミール作戦を開始した。ルイバコフ中将の第3親衛戦車軍とワシーリー・ゴルドフ中将の第3親衛軍は、ヨーゼフ・ハルペ上級大将の北ウクライナ軍集団を攻撃し、ブロドゥイで2万5000人の第13軍団を包囲し、重火器の大半を遺棄して敗走させた。さらに7月27日にリヴィウ、8月1日にはポーランドのルブリンを占領し、カルパチア山脈以東からドイツ軍を駆逐している。 一方、北方ではイワン・バグラミャン大将の第1バルト方面軍がシャウレイ作戦を開始し、7月末にラトビアの首都リガ西方でリガ湾に達し、中央軍集団と北方軍集団を寸断することに成功している。さらに8月にはアンドレイ・エリョーメンコ上級大将の第2バルト方面軍とイワン・マスレニコフ大将の第3バルト方面軍、レオニード・ゴヴォロフ大将のレニングラード方面軍がエストニアにむけて攻勢を開始した。一方、フェルディナント・シェルナー大将の北方軍集団は、グロースドイッチュラント装甲擲弾兵師団や重巡洋艦プリンツ・オイゲンの支援を得てミタウ(現、イェルガヴァ)を奪還し、中央軍集団との連絡線を一時的に回復する(バルト海攻勢)。しかし、第1バルト方面軍に属するワシーリー・ヴォリスキー中将の第5親衛戦車軍によって10月10日にメーメルが包囲され、主力の第16軍と第18軍は東プロシアから遮断されてクールラント半島に孤立し、ロタール・レンデュリック大将のもとでクールラント軍集団に再編され、海上からの補給に頼ってそのまま敗戦を迎える(クールラント・ポケットの戦い)。
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