南匈奴の衰亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 05:42 UTC 版)
詳細は「南匈奴」を参照 残された南匈奴は漢に服属して辺境の守備に当たった。しかし、次第に配下の統制が利かなくなり、南単于の権威が弱くなっていった。時に匈奴のいなくなったモンゴル高原では東の鮮卑が台頭しており、その指導者である檀石槐は周辺諸族を次々と侵略していき、漢の北辺を脅かした。屠特若尸逐就単于(在位:172年 - 177年)は漢の護烏桓校尉や破鮮卑中郎将、使匈奴中郎将らと共に鮮卑に対抗したがまったく相手にならず、結局檀石槐の存命中は何もすることができなかった。その後の漢は動乱期に突入し、黄巾の乱やその他の戦乱に南匈奴も駆り出されることとなった。そんな中、内紛が起き、単于於夫羅(在位:188年 - 195年)は南匈奴から放逐され、流浪の末に漢の権力者である曹操の元に身を置いた。後継した南単于の呼廚泉(在位:195年 - ?年)も曹操によって鄴に抑留され、五分割された南匈奴は右賢王の去卑がまとめることになった。以降、南単于は魏・晋の庇護の元に存続したが、単于の位は既に名目上のものとなっており、実際の権威は左賢王に移っていた。やがて晋が八王の乱で疲弊すると、於夫羅の孫にあたる劉淵(在位:304年 - 310年)は大単于と号して晋から独立、国号を漢と定めた。やがて中華の君主号である皇帝を名乗るようになり、単于号は北方遊牧民族に対する単なる称号となった。
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