朝鮮との再交渉と「九月協定」とは? わかりやすく解説

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朝鮮との再交渉と「九月協定」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 08:03 UTC 版)

明治六年政変」の記事における「朝鮮との再交渉と「九月協定」」の解説

朝鮮との国交問題そのもの依然未解決であり、伊地知正治のように征韓派でも政府残留した者も存在すること、そして天皇勅裁には朝鮮遣使を「中止」するとは書かれず、単に「延期」するとなっており、その理由当時もっとも紛糾していたロシアとの問題のみを理由として掲げていたからである。つまり、ロシアとの国境問題解決した場合には、改め朝鮮への遣使が行われるという解釈成立する可能性があった。そして、それは千島樺太交換条約締結によって、政府内に残留した征韓派は今度こそ朝鮮遣使を実現するようにという意見上げ始めたのである。 ところが、台湾出兵発生大院君失脚によって征韓視野入れた朝鮮遣使論は下火となり、代わりに純粋な外交による国交回復のための特使として外務省担当官であった森山茂(後に外務少丞)が倭館派遣され朝鮮政府代表との交渉が行われることとなった1874年9月開始され交渉は一旦は実務レベルの関係を回復して然るべき後に正式な国交回復する交渉を行うという基本方針合意成立(「九月協定」)して、一旦両国政府からの方針了承得た後で細部交渉をまとめるというものであった。 しかし、日本側が一旦帰国した森山からの報告受けた後に、大阪会議佐賀の乱への対応で朝鮮問題後回しにされて「九月協定」への了承先延ばしにしているうちに、朝鮮では大院君側が巻き返し図り再び攘夷論巻き起こったのであるこのため明治8年(1875年)2月から始められ細部詰めるための2次交渉は全く噛み合わないになってしまった。しかも交渉双方首都から離れた倭館のある釜山開かれ相手政府状況は勿論、担当者自国政府状況も十分把握できない状況下で交渉が行われたために相互ともに相手側が「九月協定」の合意内容破った非難始めて6月には決裂した一方日本政府国内世論士族反乱立憲制確立を巡る議論注目移り、かつての征韓派も朝鮮問題への関心失いつつあった。このため8月27日森山特使引上げ命じて当面様子見を行うことが決定したのである。その直後江華島事件発生その結果日朝修好条規締結することになる。

※この「朝鮮との再交渉と「九月協定」」の解説は、「明治六年政変」の解説の一部です。
「朝鮮との再交渉と「九月協定」」を含む「明治六年政変」の記事については、「明治六年政変」の概要を参照ください。

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