朝鮮との再交渉と「九月協定」
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「明治六年政変」の記事における「朝鮮との再交渉と「九月協定」」の解説
朝鮮との国交問題そのものは依然未解決であり、伊地知正治のように征韓派でも政府に残留した者も存在すること、そして天皇の勅裁には朝鮮遣使を「中止」するとは書かれず、単に「延期」するとなっており、その理由も当時もっとも紛糾していたロシアとの問題のみを理由として掲げていたからである。つまり、ロシアとの国境問題が解決した場合には、改めて朝鮮への遣使が行われるという解釈も成立する可能性があった。そして、それは千島樺太交換条約の締結によって、政府内に残留した征韓派は今度こそ朝鮮遣使を実現するようにという意見を上げ始めたのである。 ところが、台湾出兵の発生と大院君の失脚によって征韓を視野に入れた朝鮮遣使論は下火となり、代わりに純粋な外交による国交回復のための特使として外務省の担当官であった森山茂(後に外務少丞)が倭館に派遣され、朝鮮政府代表との交渉が行われることとなった。1874年9月に開始された交渉は一旦は実務レベルの関係を回復して然るべき後に正式な国交を回復する交渉を行うという基本方針の合意が成立(「九月協定」)して、一旦両国政府からの方針の了承を得た後で細部の交渉をまとめるというものであった。 しかし、日本側が一旦帰国した森山からの報告を受けた後に、大阪会議や佐賀の乱への対応で朝鮮問題が後回しにされて「九月協定」への了承を先延ばしにしているうちに、朝鮮では大院君側が巻き返しを図り再び攘夷論が巻き起こったのである。このため、明治8年(1875年)2月から始められた細部を詰めるための2次交渉は全く噛み合わない物になってしまった。しかも交渉は双方の首都から離れた倭館のある釜山で開かれ、相手側政府の状況は勿論、担当者が自国政府の状況も十分把握できない状況下で交渉が行われたために相互ともに相手側が「九月協定」の合意内容を破ったと非難を始めて、6月には決裂した。 一方、日本政府と国内世論は士族反乱や立憲制確立を巡る議論に注目が移り、かつての征韓派も朝鮮問題への関心を失いつつあった。このため、8月27日に森山特使に引上げを命じて当面様子見を行うことが決定したのである。その直後に江華島事件が発生、その結果日朝修好条規を締結することになる。
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