朝鮮における「天下」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 10:16 UTC 版)
朝鮮における「天下」概念はまず高句麗において成立した。高句麗は自国を中華とし、周辺諸民族を夷狄視する小中華的天下観を持っていたが、それは同時に天や河に対する独自の信仰形式を内包していた。広開土王碑には「永楽」という独自の年号が記載されている。百済・新羅もそれぞれ独自の「天下」概念を有していたと考えられている。一方で中国思想の影響の下に周の封建国としての箕子朝鮮神話が形成されており、儒教の教えが古くからこの地に根付いていたという認識も存在し、このことは中国の天下概念の中に朝鮮を位置づけようとする傾向を持っていた。 高麗時代には仏教・道教・シャーマニズムをよりどころとしながらも、朝鮮独自の天下概念を展開する壇君神話が成立した。新羅は唐の太宗に国内で独自の年号を用いていることを咎められて以降唐の正朔を守っていたが、高麗前期には中国王朝の年号と高麗独自の年号を交互に使用していた。国内では王は「朕」と自称し、死後は廟号を贈られ、王の命令を「制」「詔」などと記していたが、これは中国の華夷思想によると中国王朝の皇帝にしか許されないことであった。さらに当時の宮廷の頌歌では「海東天子」や「南蛮北狄自ら来朝す」といった表現があり、当時の金石文には「皇帝陛下詔して曰く」と刻しているものもある。天子の特権である祀天も行われ、都であった開城は「皇都」と呼ばれた。 一方高麗時代の中国的「天下」概念では、中国内部に宋・遼、宋・金が並び立つ情勢のなか、宋を南朝、遼・金を北朝として両属する形を維持していた。しかし、理念上は南朝を重視する傾向にあり、両朝の年号を併記する場合は南朝を先とすることが一般的であり、宋によりその忠実さを「小中華」と称えられた。中国に元王朝が成立すると、元は高麗に従来以上の服属を要求し、朕という自称や廟号、制・詔といった用語も廃され、高麗国王は自称を「不穀」(穀は善の意で、不穀とは不善という意味で謙った自称)と改めた。またこのころ朱子学が流入し、名分論が盛んとなった。 李氏朝鮮の時代には、明の冊封を受け国号を「朝鮮」としたこともあって、「明=李氏朝鮮」関係を「周=箕子朝鮮」関係と同一視する中華的な「天下」概念があった一方、世宗時代には女真・日本・対馬・壱岐・松浦・琉球などを自国に朝貢する対象と主観する「天下」概念も存在し、祀天もおこなわれた。また明では陽明学が流行していたが、朝鮮ではこれを儒教の堕落とみる風潮があった。清の時代には冊封を受け、服属しながらも知識人の間では明の崇禎紀元が好んで使用された。これは中国が清という夷狄の王朝に支配されているため、朝鮮こそが中華の本流であるという意識に基づいている。
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