朝鮮における南北国時代論
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「南北国時代」の記事における「朝鮮における南北国時代論」の解説
李氏朝鮮中期に、朴趾源は、漢王朝の領土が鴨緑江の南に広がっていたという事実を否定し、満州の渤海を朝鮮の歴史から除いた金富軾を批判し、渤海は高句麗の「子孫」だったと主張した。李圭景(朝鮮語版)は、渤海の朝鮮の歴史からの除外は「それが広大な領域を占めていた」ため、「重大な誤り」だと主張した。しかし、李氏朝鮮後期、渤海の創設者が高句麗人とは考えられない靺鞨人であったことを認めるにもかかわらず、渤海を朝鮮の歴史に含める歴史家が増えた。18世紀には次のように意見が分かれていた。学者李瀷と安鼎福(朝鮮語版)は渤海を朝鮮の歴史の一部と考えることを断固として拒否し、一方、申景濬(朝鮮語版)と柳得恭(朝鮮語版)はそれを完全に組み込んでいた。1世紀後、韓致奫(朝鮮語版)と韓鎭書は、新羅のような議論のない朝鮮の王朝と等しいものとして渤海を朝鮮の歴史の中に含めた。申采浩は、渤海や夫余王国を朝鮮の歴史から除いたと『三国史記』を批判した。彼は、渤海が契丹に敗れたことを「私たちの祖先『檀君』の古代の土地の半分を…900年以上の間『失った』」と解釈した。北朝鮮の学者、およびより最近の韓国の何人かの学者は、統一新羅が朝鮮を統一したとの見解に挑戦することにより、渤海の歴史を朝鮮の歴史の不可欠な部分として組み込もうとした。この物語によると、渤海が朝鮮半島北部の旧高句麗の領土を占めながらまだ存在していたから、高麗が最初の朝鮮統一だった。 「南北国時代」論者は、南北国時代という用語の初出は新羅後期の崔致遠による『崔文昌侯全集』と主張する。崔致遠の唐への上表文では、渤海を指して「北国」と記している。しかし、渤海が新羅を「南国」と呼んだというのは史料の裏付けのない憶測に過ぎない。「南北国時代」論者は、ついで高麗時代の『三国史記』に見える「北国」用例をあげるが、都合の悪いことに、同じ『三国史記』にみえる「北朝」は北方の契丹を指している。そもそも『三国史記』には渤海関係記事はほとんどみえず、わずかに唐・新羅と渤海との紛争が記録されているにすぎない。李承休の『帝王韻紀』が歴代「東国君王」の一つとして渤海を取り上げている。 李氏朝鮮の実学者柳得恭が『渤海考』の中で、「高麗は南方の新羅、北方の渤海をあわせて南北国史を編纂すべきだったのに、これをしなかったため渤海故地をえる根拠を失い弱国となった」と主張しており、「南北国時代」論者はこれを特筆する。しかし、李氏朝鮮におけるメインストリームの見解は、『東国通鑑』に高麗太祖王建の契丹政策について「契丹之失信於渤海、何与於我。而為渤海報復。(契丹が渤海を裏切ったことなど我が国と何の関係もない、渤海のために報復をするのか)」とあり、『東史綱目』に「渤海不当録于我史(渤海は我が国の歴史に記録するにあたらない)」とあるように、渤海を自国の歴史の一部とみなさないものであったが、現在の韓国や北朝鮮では「渤海は高句麗人が建国した国であり、高句麗の継承国で、韓国史の一部である」と統一した見方をしている。この考え方は、1784年に柳得恭『渤海考』が初めに発表し、1970年代になってこの研究が盛んになり、現在では、この時代を北は渤海、南では新羅が並立した自国の「南北国時代」として国定歴史教科書にも記載し教育をおこなっている。朴チョルヒ(朝鮮語: 박철희、京仁教育大学)は、韓国の国定歴史教科書は過度に民族主義的に叙述されており、「高句麗と渤海が多民族国家だったという事実が抜け落ちている。高句麗の領土拡大は異民族との併合過程であり、渤海は高句麗の遺民と靺鞨族が一緒に立てた国家だが、これについての言及が全く無い」「渤海は高句麗遺民と靺鞨族が共にたてた国家だというのが歴史常識だ。しかし国史を扱う小学校社会教科書には靺鞨族に対する内容は全くない。渤海は高句麗との連続線上だけで扱われている」と批判している。このように、渤海を自民族の歴史と位置付ける観念は弱いため、南北国時代論者は、より自民族としての観念が強固な高句麗に渤海を結びつけようとする。あたかも渤海に独自のものが何もなかったかのような言説が韓国では広がっている。その牽強付会ぶりは、自らそれを主導してきた宋基豪(ソウル大学、朝鮮語: 송기호、英語: Song Ki-ho)ですら「もし渤海人たちが聞いたら泣いてしまうだろう」と自嘲するほどである。宋基豪は以下の主張をしている。 ひとことで「渤海は高句麗的であった」というのが教科書をはじめ、われわれの歴史書における渤海史叙述の態度だ。渤海は高句麗遺民が建て、彼らが政権の枢軸をなし、渤海文化も高句麗文化を継承したというのである。今まで何気なく聞いてきたこの言葉をよく注意してみると、どこか異常だ。新羅や高麗の文化に言及するときは、その文化自体の特性を叙述するのに、渤海だけは高句麗的であるなどと、二百余年間、王朝を維持しながら、どうして高句麗的な生だけを生きてきたといえるだろうか。これをめぐって講義時間に、もし渤海人たちがこの言葉を聞いたら、泣いてしまうだろうと冗談を言ったりもした。渤海人たちは、彼ら自身の文化と生を営み、その中に高句麗的なものであれ、靺鞨的なものであれ、あるいは、またちがう要素なども入っていたというのが正しいのでないか。しかしながら、研究者たちの間ですら、渤海文化にそのような固有の文化が宿っていたという事実がいまだに認識されていない。今ではすでに常識になっているように、渤海は多数の種族で構成された国家で、渤海領土は現在、多数の国家に分かれている。渤海をありのままに解釈するには、それほどに複雑な変数が介在している。中国では中国史として、ロシアではロシア史として、韓国では韓国史として主張していながら、中国とロシアでは靺鞨住民の視覚から解釈するのに反して、韓国では高句麗遺民の視覚から接近している。しかし韓国ではすべてのものが高句麗的だという説明にならざるをえない。中国とロシアの態度が正しくないように、われわれの態度もまた、あまりに民族主義的な視覚を固持しているのである。このような我田引水的な態度からぬけだして渤海史を眺めてみるとき、はたしてその実態はどうなるだろうか。渤海は高句麗遺民と靺鞨族が主軸をなしたのであれば、高句麗の延長線で眺めることもできるが、多数を占めている靺鞨族の歴史からも眺めうる余地は十分にある。靺鞨族は後に女真族となったが、今は満州族と呼ばれているのであるから、かれらの祖先の歴史でもある。(中略)私がアメリカに滞在したときも韓国の歴史学はあまりに民族主義的だという話をしばしば聞いた。これに共感した面もあったが、その一方で、われわれの措置がそうするしかないという事情を理解させなければならない。アメリカの学生にナショナリズムといって浮かんでくるのはなにかと聞いてみたら、ファシズムだという答えが返ってきた。第二次世界大戦で体験したように、民族主義は強者の攻撃的な武器に使用された。それが西欧的な民族主義の観念だ。しかし、われわれの民族主義はふたつの強大国のはざまにある小国として、最小限の生存のための防御的性格をおびたものであって、その性格はまったくちがう。われわれの教科書はあまりに民族主義的だと批判し、渤海史の叙述もそうであるといいつつ、その一方で、民族主義を擁護する発言をしてしまい、すっかり矛盾した格好になってしまった。偏狭な民族主義史観を克服しなければならないのは当然であるが、西欧の観念に追従して民族主義をあたかも犯罪のように扱うような態度もやはり排撃しなければならない。われわれは今、このような両極の間を無事に通過しなければならない危険な航海路に立たされているのである。 — 宋基豪、民族主義史観と渤海、歴史批評58 北朝鮮で1991年に出版された『조선전사5』(中世編)には、タイトルが「渤海と後期新羅」とされている。 渤海は高句麗を継承した国であり、7世紀末から10世紀初めに至る時期に朝鮮史の発展に大きな役割を果たした。渤海は高句麗遺民たちによって昔の高句麗の地に建てられた強力な主権国家であり、高句麗文化を継承発展させ、我が国の北方諸国からの侵入を防ぎ、国と民族の安全を確保するために大きな貢献をした。...朝鮮史において、渤海は南の後期新羅と長い間共存しながら民族史の発展の新たな時期を飾った。 — 조선전사 5、발해 및후기신라、과학백과사전종합출판사 전영률(朝鮮社会科学院歴史研究所所長)は、以下のように述べている。 新羅支配層が外勢(唐)を引き込んで、高句麗と百済を滅亡させた。高句麗領土の北部は唐の支配下に置かれた。新羅は朝鮮半島の大同江以南のみ支配しただけだ。高句麗の故地には、高句麗遺民が靺鞨族と一緒に高句麗の将軍である大祚栄の指揮のもと渤海国(698〜926年)を立てた。...したがって新羅は統一国家ではなく、国土の南部に輝いた朝鮮の地域王朝に過ぎず、私たちの歴史の最初の統一国家は高麗ということが科学的に明らかになった。 — 전영률 전영률(朝鮮社会科学院歴史研究所所長)は、新羅を朝鮮の歴史における統一国家と主張することは、事実上、渤海を朝鮮の歴史から引き離すものであり、「新羅中心説」「新羅正統説」を主張することは、南朝鮮傀儡(韓国)の売国的な「北進統一」にいくつかの歴史的根拠を提供する御用行為と批判している。これに対して金東宇(朝鮮語: 김동우、国立春川博物館(英語版))は、「南北国時代」という時代区分を採用するのは、高句麗を継承した北の渤海と南の新羅が互いに存在することを認めることから始まっており、いずれかの国を卑下しては「南北国時代」という時代区分が成立しないと批判している。 「南北国時代」を自著『韓國史新論』(朝鮮語: 한국사신론、일조각、1967年)において提唱している李基白(朝鮮語版)(朝鮮語: 이기백、西江大学)は、「渤海滅亡後、高麗に帰属した渤海遺民は10万人程度であり、渤海を朝鮮の歴史のなかで、統一新羅と対等に並列するのは問題ではないのか」という質問に対して、 「渤海は少数の高句麗遺民が多数の靺鞨族を支配していた国です。もし、現在靺鞨族が独立国家を成していた場合、渤海は異民族の支配を受けていた時期として靺鞨の歴史に記述されるでしょう。一方、韓国人としては高句麗遺民が統治していただけに、渤海を当然韓国史に含まなければなりません。しかし、統一新羅が朝鮮民族史の大勢を占めており、渤海は支流とすることができます」と回答している。 韓国メディアでは、朝鮮の歴史における正統性である統一新羅と渤海を対等・並列するのは妥当ではない、傍系を直系より高位にすると滑稽な家系図になるという指摘があり、李鍾旭(朝鮮語: 이종욱、西江大学)は、「現代の韓国および韓国人をつくった歴史が重要だという観点では、渤海と金は韓国人と血縁関係にないので、朝鮮の歴史の正史に入れることはできないと思います」「朝鮮の歴史の正統性は、古朝鮮、三国時代、統一新羅、高麗王朝、李氏朝鮮です。高麗王朝は、統一新羅の領土と人民をそのまま継承し、その支配体制をそのまま受け入れた。渤海は高麗王朝の建国に貢献していません。高句麗-渤海を朝鮮の歴史の正統性とみる歴史観は、目下の政治状況を合理化するための政治行為です」「渤海史は、李氏朝鮮末期まで朝鮮の歴史に割り込んだことはありませんが、光復後に歴史家の孫晋泰(朝鮮語版)が『朝鮮民族史概論』を執筆し、渤海史を附録に入れました。そうするうちに1970年代に入り、韓国の歴史教科書では、統一新羅後の部分に渤海が入ってきた。2002年の第7次国定教科書改訂では、『統一新羅』がなくなって『南北国時代』と叙述して、新羅と渤海が対等に扱われます」「渤海は今日の韓国人に何を与えてくれたか。渤海滅亡時、渤海王族の大光顕が遺民数万人を連れて高麗王朝に投降し、平安道地域に定着した程度です。高麗王朝は新羅の伝統を90%以上継承した国です。王家だけが変わっただけで、支配層はほぼ新羅出身でした。渤海は今日の韓国人を形成するうえで血を分け与えたのか、渤海の制度を朝鮮は継承したのか。そのような側面から渤海が朝鮮の歴史のなかに入ってくるのは問題があると思います」と評している。
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