上原熊次郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/11 18:43 UTC 版)
上原 熊次郎(うえはら くまじろう、生年不詳 - 1827年[1][2] )は、江戸時代後期のアイヌ語通詞[1]。
人物・生涯
松前藩に生まれた和人とされるが、生年は不詳[3]。名は有次[4]。
1792年(寛政4年)、アイヌ語を習得していた最上徳内の助けを得て、『蝦夷方言藻汐草』を刊行した[5]。
道東のクスリ場所(現在の釧路市)・アブタ場所(現在の虻田町)など当時の東蝦夷地に位置する請負場所で活動していたが、1807年(文化4年)に蝦夷地が幕府直轄領となると、松前奉行所で働くようになった。
ゴローニン事件に際してはヴァシーリー・ゴロヴニーンからロシア語を学び、通訳を務めた[3]。しかし上原のロシア語習得は困難を極め、ゴロヴニーンは上原のロシア語能力を酷評している[4]。
1824年(文政7年)、アイヌ語地名研究の先駆である『蝦夷地名考并里程記』を刊行した[6]。
評価
金田一京助は『アイヌの研究』 において上原を「アイヌ語学の鼻祖」と称賛している[7]。
秋葉実は、佐々木利和が博物館から発見した上原の『蝦夷地名考并里程記』を、松前と蝦夷地の主要地名を詳細に解説しているだけでなく、アイヌの集団名とそれぞれの地理的範囲を記録している唯一の資料と予想しており、初見時に忘れがたい感動を覚えたと評価している[8]。
批判
上原と同時代を生き、ゴローニン事件を通して上原と度々接触したゴロヴニーンは、『日本幽囚記』にて「世界中の如何なる文法をも解していない」と上原のロシア語能力を厳しく批判している[4]。
ミハイル・ドブロトヴォルスキーは、アウグスト・プフィッツマイアーによるラ・ペルーズの辞書と『藻汐草』を引用したアイヌ語辞書を批判することで、間接的に『藻汐草』と上原も批判している[9]。ドブロトヴォルスキー曰く、プフィッツマイアーの誤りの源のひとつは引用した日本人のアイヌ語の発音・聞き取りの質の悪さにあるとし、アイヌと10年以上生活した日本人のアイヌ語通訳ですらアイヌ語の発音は劣悪であったと語っている[9]。
著書
- 『蝦夷方言藻汐草』(『もしほ草』) - 1792年(寛政4年)刊、世界初のアイヌ語辞書
- 『蝦夷語集』 - (1824年?)『藻汐草』の増補版の稿本
- 『蝦夷地名考并里程記』1824年(文政7年)刊、アイヌ語地名解
- 『海表異聞 子十 蝦夷人言葉集』 - 『海表異聞』のうちの一巻、アイヌ語語彙集。『蝦夷方言』とも[10]。
脚注
- ^ a b c 上原, 熊次郎, -1827, 通事 - Web NDL Authorities (国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス)
- ^ 谷本 2017.
- ^ a b c 伊藤 2008, p. 130.
- ^ a b c 「上原熊次郎」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus(旧版)』 。コトバンクより2025年1月13日閲覧。
- ^ 「蝦夷方言藻汐草」『世界大百科事典(旧版)』 。コトバンクより2025年1月13日閲覧。
- ^ “蝦夷地名考並里程記 えぞちめいこうならびにりていき”. 文化遺産オンライン. 2025年2月9日閲覧。
- ^ 金田一京助「アイヌの研究(金田一京助著, 内外書房發行)」『史学』第4巻、三田史学会、1925年5月、140(300)- 141(301)。
- ^ “書籍のご案内: 『アイヌ語地名資料集成』山田秀三監修/佐々木利和編”. 草風館 (1999年11月10日). 2025年2月9日閲覧。
- ^ a b M.M.ドブロトヴォールスキィ(著), 寺田吉孝, 安田節彦(訳)『M.M.ドブロトヴォールスキィのアイヌ語・ロシア語辞典』共同文化社、2022年11月。ISBN 978-4-87739-374-8。
- ^ “海表異聞 10 蝦夷人言葉集”. 同志社大学デジタルコレクション. 2025年1月13日閲覧。
参考文献
- 伊藤孝博『北海道「海」の人国記』無明舎出版、2008年7月30日。 ISBN 978-4-89544-478-1。
- 谷本晃久「蝦夷通詞・上原熊次郎の江戸 : 御書物同心への異動と天文方出役をめぐって」『北海道大学文学研究科紀要』第151巻、北海道大学文学研究科、2017年2月28日。doi:10.14943/bgsl.151.r1。
関連項目
外部リンク
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