アイヌ語の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 05:19 UTC 版)
アイヌ語は漢字伝来前の日本語と同様、口承のみによって受け継がれてきた。アイヌの周辺には、大和民族、漢民族、満州民族、ロシア民族など、文字を持つ民族も多かったため、彼らと付き合いのあったアイヌの中には文字を使える者もいたと考えられる。しかし、民族全体で文字を取り入れる動きは無かった。 そのため文字による古い記録は、ヨーロッパ人や和人によって書かれたものが残されていて、ヨーロッパ人によるものはラテン文字、ロシア人によるものはキリル文字、日本人によるものは仮名文字と、それぞれの使う文字で記録されている。古くは17世紀初頭に松前を訪れた宣教師ジロラモ・デ・アンジェリスのラテン文字による記録が残されている。日本の史料としては平仮名でアイヌ語が記録された『松前ノ言』が最も古く寛永年間頃のものと推定されており、年代の明確なものとしては宝永元年(1704年)に蝦夷地を訪れた禅僧である正光空念の記録が古い。 正徳2年(1712年)に刊行された『和漢三才図会』では、50ほどのアイヌ語の単語とその日本語訳が記されている。蝦夷通詞(アイヌ語通訳)の上原熊次郎は、寛政4年(1792年)に刊行されたアイヌ語の辞書『もしほ草』(書名は蝦夷方言とも)の著者として知られており、自筆稿本である『蝦夷語集』(国立公文書館所蔵)や『蝦夷地名考並里程記』(東京国立博物館所蔵)が伝わっている。 アイヌ自身による記録は、大正時代からラテン文字などを用いて書かれるようになったといわれている。ピウスツキと親交があった千徳太郎治は、キリル文字によってアイヌ語を表記していた。
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