アイヌ語研究に関して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 00:52 UTC 版)
生涯に渡り貧しい生活に耐えながら、アイヌ語の研究に一生を捧げた。孫に当たる金田一秀穂は、京助がいなければアイヌ語は残らなかったかもしれないと2014年に語っている。しかし、第二次世界大戦後はアイヌの同化政策に協力したとして批判を受けた。 当時はアイヌは和人よりも劣った民族であると教え込まれていたが、京助は「アイヌは偉大な民族だ」「あなた方の文化は、決して劣ったものなどではない」と真摯に接した。一方で次のようにも書いている。 「しかしまた、それはそれとして、同学の人たちがみんな、りっぱな西洋文学へ入っていったり、西洋の哲学とか、日本の哲学とか、そういう高い思想をたどって、自分自身をつくりあげているとき、自分一人、野蛮人のそんなものをやっていたら、みんなからとり残されてしまうのではないか。考えてみると、ずいぶんそれも寂しい気がしました。」「金田一京助 私の歩いてきた道」(日本図書センター、1997年2月25日、52頁 - 55頁) 「自分がひとり、未開人の世界へ後もどりをして、蒙昧な、低級文化の中にいつまでも、いつまでも、さまよつて暮らすのかと、さびしさが込み上げる」(「私の仕事」、1954年) また、アイヌはアイヌ語を捨てて帝国日本の言語である国語へと同化すべきとも考えており、安田敏朗はこれらを含む京助のアイヌやアイヌ語に対する姿勢を2008年の著書『金田一京助と日本語の近代』(平凡社新書、2008年)において批判的に取り上げている。 京助の門人だった知里真志保は後年、京助ら日本人のアイヌ語研究を厳しく批判した。京助も知里の著書『アイヌ語辞典 植物篇』が朝日賞の候補になったとき、冒頭で北海道大学の植物学者をやり玉にあげていることを理由に推薦を断っている。知里は「先生は俺を嫉妬している」と周囲にもらしたという。しかし続編の『人間篇』では推薦文を書いている。真志保は1961年(昭和36年)52歳で死去。79歳の京助は空路北海道まで駆け付けたが、真志保の死んだら知らせてほしい人のメモの中に京助の名はなかった。 昭和天皇にアイヌ語について進講することとなり、持ち時間は15分と決まっていたにも関わらず2時間近く話し続けてしまい、京助は天皇の前で大恥をかいたと落胆してしまう。しかしながら、天皇は後日催された茶会の席で、「この間の話は面白かったよ」と労い、京助は「恐れ入りました」と発言したあと言葉が続かず、涙が止まらなくなったという。なお、京助の逝去に際し天皇より祭粢料が下賜されている。
※この「アイヌ語研究に関して」の解説は、「金田一京助」の解説の一部です。
「アイヌ語研究に関して」を含む「金田一京助」の記事については、「金田一京助」の概要を参照ください。
- アイヌ語研究に関してのページへのリンク