東京での文筆活動と生活
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1908年4月28日より東京・千駄ヶ谷の新詩社にしばらく滞在する。5月2日、与謝野鉄幹に連れられ森鷗外宅での観潮楼歌会に出席する(参会者は佐佐木信綱・伊藤左千夫・吉井勇・北原白秋ら8名)。5月4日、中学校の先輩である金田一京助の援助で、金田一と同じ本郷区菊坂町の赤心館に居住することになる。宮崎郁雨には「三ヶ月ないし半年の間」に家族を上京させると約束したこともあり、小説を執筆して売り込みをかけた。啄木は「漱石の虞美人草のゆき方ならアレ位のものを二週間で書ける(宮崎郁雨宛書簡)」という自信を抱き、金田一や鷗外、さらには自分から小説の雑誌掲載を依頼したがいずれも成功しなかった。生活の危機に直面した啄木に対し、金田一が自分の服を質入れして12円を渡したことで当座はしのいだものの先行きが見えないことに変わりはなかった。6月27日の日記に、死去した国木田独歩や自殺した川上眉山は死ぬことのできない自分よりも幸福だと記した。この間、6月23日から25日にかけ「東海の小島…」「たはむれに母を背負ひて…」など、後に広く知れ渡る歌を含む186首を作り、それらから抜粋した114首を翌月の『明星』に発表した。9月6日、下宿先を本郷区森川町蓋平館に移す。これは、啄木の下宿代滞納を口汚く下宿先の主婦に罵られたことに憤慨した金田一が、蔵書を売り家賃を払った上で転居したものだった。 新詩社の友人である東京毎日新聞記者の斡旋により、11月から同紙に小説「鳥影」を連載した(全60回)が、目立った反応なく終わる。 11月に『明星』は終刊するも、続けて『スバル』の創刊準備にあたる。 1909年(明治42年)1月、『スバル』が創刊され、発行名義人となった。啄木は、2月に同じ岩手県出身である東京朝日新聞編集長の佐藤北江に手紙、さらに直接の面会で就職を依頼して採用され、3月1日に東京朝日新聞の校正係となる。 4月3日よりローマ字で日記を記すようになる。7日より新しいノートで「ローマ字日記」を(途中からは断続的に)6月16日まで著す。一方、啄木が定職を持ったことを知った母・カツは東京での家族同居を求める手紙を出し、4月13日に届いている。しかし啄木はこれまでの借金もあって迎える準備ができず、また自由な単身生活と家族扶養の葛藤から「家」の抑圧より逃避して浅草の娼婦を買う日常を送っていた。 5月26日に宮崎郁雨から、旅費を負担して家族を上京させるという通知が届く。6月16日、函館から宮崎郁雨に付き添われて妻子と母が到着し、本郷区本郷弓町の床屋「喜之床」の二階に移る。1年5か月ぶりに家族揃っての生活となったが、節子は函館時代に義母のカツとの間で確執が深刻化し(またカツから結核に感染した)、函館で代用教員の職に就いたものの窮乏生活を余儀なくされ、啄木が就職しても上京に対して「様子がよくわかった以上でなくては不安心です」と妹への手紙に記すほど、啄木への感情は変化していた。 節子の函館時代から続く体の不調に啄木は適切な処置を執らず、カツと節子の関係も改善されないままだった。10月2日、節子は書き置きを残し、京子を連れて盛岡の実家に戻った。帰郷の理由としては、妹のふき子と宮崎郁雨の結婚式(10月26日)を控え、ふき子に面会したいという事情もあったとされる。妻子の帰郷を知った啄木は金田一京助に帰宅を願う手紙の執筆を依頼、高等小学校の恩師だった新渡戸仙岳にも援助を求めたほか、自らも手紙を送った。節子は3週間後の10月26日に帰宅した。この出来事は啄木に大きな衝撃を与え、それまでの創作姿勢を「卑怯なる空想家」と断じ、現実の生活に向き合って文学のあり方を考察する方向へと向かった。一方帰宅後の節子は「忍従」と形容される生活を送り、ふき子に彼女や実母を恋い慕う手紙を複数出した。 11月より、朝日新聞社から刊行予定の『二葉亭全集』で校正を担当する。この仕事は、主筆の池辺三山が割り振ったものだった。 12月20日、一禎が野辺地から弓町の家に来て同居を始める。 1910年(明治43年)3月下旬に『二葉亭全集』第1巻の校正が終わり、4月に退社した学芸部記者の後任として全集の出版事務全般を担当した。第2巻(11月刊行)を出版までほぼ独力で成し遂げるとともに、二葉亭四迷への理解を深めた。
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