函館時代とは? わかりやすく解説

函館時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/09/10 06:48 UTC 版)

田辺三重松」の記事における「函館時代」の解説

北海道函館区大黒町(現・函館市弁天町生まれ幼少時阿部家から田辺家養子となった北海道庁函館商業学校(現・函館商業高校)では北條玉洞に師事し1916年函館商業学校卒業田辺家家業である呉服店を継ぐ傍ら絵画制作行い1921年には函館初の本格的美術団体赤光社の設立参加1928年には家業廃して函館市新川小学校(現・函館市立中部小学校)の教員となり、この年には第15回二科展初出品して荷揚げ場」と「花道」が初入選、北海道展でも入選し長官賞を受賞した1934年には新美術家協会会員推挙された。1936年二科展では特待賞を受賞1939年には北海道庁函館高等女子校(現・北海道函館西高校)の図画教諭となった石井柏亭安井曽太郎児島善三郎らの指導を受け、1942年二科展では「岬の午後」と「晩春耕地風景」が入選、二科賞を受賞した1943年には戦前二科会最後会員となった太平洋戦争では北部軍報道部員として北千島派遣部隊従軍し新聞上で北方通信連載した戦後1945年には向井潤吉らと行動美術協会設立関与し全北海道美術協会でも創立会員となった1946年には教員退いて絵画制作専念し1949年には北海道文化賞受賞1951年には厚生省からの依頼で「夏の中禅寺湖」を制作した

※この「函館時代」の解説は、「田辺三重松」の解説の一部です。
「函館時代」を含む「田辺三重松」の記事については、「田辺三重松」の概要を参照ください。


函館時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 06:07 UTC 版)

ジョン・バチェラー」の記事における「函館時代」の解説

香港学んでいる時健康を害して1877年(明治10年)に、静養のために函館に来た。函館伝道している中で、アイヌ民族のことを知りアイヌ伝道志すバチェラーは、1879年(明治12年)に、CMS信徒伝道者任命され函館拠点アイヌへの伝道活動始める。1879年アイヌ中心地一つある日高地方の平取訪問した。ここでアイヌ長老ペンリウクの家に3ヶ月滞在してアイヌ語学んだ1882年(明治15年)にイギリス一時帰国し、1883年(明治16年)に再び函館帰任した。1884年(明治17年)、ルイザ・アンザレスと結婚した1885年明治18年)、幌別村現在の登別市)を訪れアイヌキリスト教教育のほか、アイヌ語教育をはじめる。1888年(明治21年)、金成太郎校主としてキリスト教教育行なうアイヌ学校設立構想の下、金成喜蔵息子太郎アイヌ教育を行うアイヌ教師とするために私塾相愛学校設立する1892年明治25年)、アイヌ無料施療できるように、アイヌ施療病室開設する

※この「函館時代」の解説は、「ジョン・バチェラー」の解説の一部です。
「函館時代」を含む「ジョン・バチェラー」の記事については、「ジョン・バチェラー」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「函館時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「函館時代」の関連用語

函館時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



函館時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの田辺三重松 (改訂履歴)、ジョン・バチェラー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS