短歌の発表開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 06:13 UTC 版)
1946年、函館時代のふみ子は夫から禁止されていたと考えられる短歌の発表を始めていた。発表先は北海道新聞函館支社と、戦後まもなく道南で発刊された多数の文芸雑誌のひとつである1946年3月に創刊されたポプラという雑誌であった。北海道新聞函館支社では文芸欄に掲載するために評論、随筆、詩、短歌、俳句などを公募した。ふみ子はその企画に応募し、短歌では唯一掲載されたのである。1946年5月7日、北海道新聞函館支社の文芸欄に掲載されたふみ子の短歌は「物々交換」、「夫に」と題された全部で9首であった。 淋しくもあるか子ら食む白飯は嫁ぎし日の帯にしあるを 人妻はかかるときにもほほゑみて容崩(かたちくず)さぬものとかと泣かゆ 当時の短歌の主流はアララギの影響を受け、写生を基本としたものであった。花嫁衣裳の帯が子どもたちが食べる白米になったという、戦後の混乱期の生活実態をありのままに切り取った作風は、当時のふみ子が写生を基本とした歌を詠もうとしていたことが見えてくる。後者の句は、夫婦間の亀裂が深まる中でも離婚にまで踏み切ることは出来ず、耐えて好きな短歌に己を託した姿が見える。前述のように夫からは短歌の発表を禁じられていたと考えられ、禁を犯しての発表はふみ子の切羽詰まった思いがあった。 一方、新興の文芸雑誌であるポプラには、ふみ子はやはり1946年から短歌の投稿を始めている。これは北海道新聞に掲載された雑誌創刊の広告を見て、ふみ子が購読の申し込みと短歌の投稿を始めたものであった。しかしポプラにはふみ子が投稿した歌は載っていない。これはふみ子から雑誌に発表しないで欲しいとの依頼があったためである。なぜポプラへの短歌掲載を断ったのかというと、発行されたポプラの内容から、レベルが低すぎて作品発表の場としてふさわしくないと判断したためだと考えられている。実際「もう少し程度の高い大人の雑誌を作ってください」と、ポプラの主催者宛の苦言を述べた手紙が残っている。 ポプラの主催者は当時、20歳を過ぎたばかりの川口清一であった。内容に苦言を呈しながらも川口を励ましたりもしている。川口はふみ子に強い関心を抱いたものの、それに気づいたふみ子からは、「それでもやはり家庭生活を愛しております」、そして「昔少女であった頃にありとあらゆる心で愛した人と別れてからは、異性への愛情は枯れてしまいました」などと川口に書いた手紙が残っている。一度だけふみ子に会った川口は晩年「生涯で会った、知的近代的という言葉がぴったりの、もっとも美しい女性」と評している。
※この「短歌の発表開始」の解説は、「中城ふみ子」の解説の一部です。
「短歌の発表開始」を含む「中城ふみ子」の記事については、「中城ふみ子」の概要を参照ください。
- 短歌の発表開始のページへのリンク