短歌への傾倒
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1952年7月、北海道教員保養所から退所した陽子は、恵庭小学校に復職した。しかし3年前と異なって恵庭には警察予備隊の駐屯地が設けられ、教育熱心な親が増えて高等女学校出の陽子の手には負えなくなっていた。結局1954年3月に恵庭小学校を退職し、樺太の美田炭鉱で憧れを抱いたタイピストを目指して学校に通うようになった。 保養所退所後、陽子の短歌は「新墾」でしばしば入選するようになっていた。ちょうど同じ頃、「新墾」で急速に頭角を現しだしていたのが中城ふみ子であった。「新墾」誌上で二人の入選作が並び紹介される機会も増え、陽子は中城ふみ子が働いていた実家の野江呉服店にわざわざ姿を見に行ったこともあったが、姿を見ただけで中城に挨拶はしなかった。二人の師匠格であった野原水嶺は、短歌研究1953年12月号で読者からの五十首公募を行った際に応募するように勧めた。中城も陽子も野原の勧めに従って応募した。 短歌研究の読者五十首公募の結果は、中城ふみ子が特選、大塚陽子は入選であった。五十首公募特選入賞時、中城ふみ子は乳がん再発により札幌医科大学附属病院入院中であった。1954年4月、中城の知人から「中城が会いたがっているが、「自分から会いたいと話すのは沽券にかかわる」と話しているので、病人のわがままだと思ってさりげなく見舞いに来てもらえないか」との手紙を受け取った。その後、タイピスト学校の授業を終えた後、お弁当を持って中城の病室に向かい、夕方、時には終電まで病室に入り浸る生活が、中城が亡くなる8月初めまで続いた。
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