短歌指導と短歌集編集
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ハンセン病文学全集8 短歌に内田の編集として1926年檜の影 1 1929年 檜の影 2 がある。その後の九州療養所、また彼が在籍した長島愛生園、松丘保養園で指導した。檜の影の聖父(1935年)、新万葉集とらい者の歌(1939年)、九州療養所アララギ故人歌集(1940年)など、かれが関わったし、その他にもある。 光田健輔も、愛生園で内田の特徴、すなわちライ文学とくに短歌の指導者として高く評価した。その為に、ほかの指導者をさしおいて、縦横に腕をふるうことができたと内田自身が語っている。島田尺草を彼は世に出し、明石海人も彼の依頼で『白描』が多数売れ、光田健輔が内田に依頼して、小川正子の著書『小島の春』も世に出た。小川の著書は最初光田健輔が某書店に依頼したがうまくいかず、内田に頼み、内田は自費出版として小川に100円出させて、200円は彼が集めて、長崎次郎書店に頼んだら当たったというエピソードを書いている。内田はまた、多くの人の歌集を発行させた。また、多くの人の歌碑を作らせた。1971年(昭和46年)宮中歌会初めに陪聴が許可された。 熊本刑務所でも短歌指導を行い、合計数千首に及ぶ歌集を4冊発行している。同刑務所が発行している隔月刊「大阿蘇」に選者として活躍している。彼の死の前年の雑誌(1981年1,2月号)に次の短歌を選んでいる。死刑囚の日記を読みしその夜の 写経の墨は念入りに磨る。鹿毛イサム。 彼の初めの業績『檜の影1』の序にいう。彼は療養所の患者の句会にでて、感動した。内田が短歌をすると知り、指導してくれといわれた。今年になって相当なものができたので世に問うこととした。患者は療養生活を歌ったが、彼らの生活と芸術の極致は深いものがある。彼らは芸術の大道を進んでいるものと信じる。 彼の『文芸によるらい患者の精神運動』によると今から30年前、日本に公立らい療養所が創設された時は主として浮浪患者を収容したために病者の生活は想像以上に暗黒であった。東京でも熊本でも開院2、3年のうちに俳句会ができた。最初は懸賞目当てであったが、次第に外部の専門家を招き、東京や九州は25年の歴史をもち「ホトトギス」誌上に入選するようになった。1924、5年より短歌会ができた。大島青松園の長田穂波、九州療養所の島田尺草、全生病院の北条民雄などが出た。まったく文芸作品こそは病者としての障壁を除き、また印刷術の発達している今日において、最も良き社会との接触面を作ってくれるのである。
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