短歌研究五十首応募一位入選
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「中城ふみ子」の記事における「短歌研究五十首応募一位入選」の解説
ふみ子の札幌医科大学附属病院入院は、そもそも予後絶対不良の宣告を受けての入院であった。入院治療開始時点は前年11月の手術痕への放射線を当てる治療を行っていたと考えられているが、手術部位周辺の皮膚への癌の転移が確認されたため、1954年1月20日からは放射線照射部位を拡大することになった。また入院時点から胸部X線写真に肺への転移を疑わせる所見が見られていたが、4月以降、ふみ子は呼吸困難を訴えるようになり、肺の放射線治療も始まった。また4月から不眠のために睡眠薬の常用を開始し、微熱にも悩まされるようになった。癌の病状は確実に悪化し続け、ふみ子の体を蝕んでいた。 3月28日、日本短歌社の中井英夫からの葉書がふみ子のもとに届いた。葉書は帯広の実家宛に出されており、実家からふみ子の病室に転送されての到着であった。葉書には「短歌研究」五十首応募でふみ子の作が1位に決定し、4月号の巻頭に掲載すると記されていた。そして題名は太宰治の戯曲から採ったと思われ、やや弱い印象の「冬の花火」ではなく「乳房喪失」としたいこと、50首のうち42首を載せたいという二点の了承を求めた。更に5月号には入選作家の抱負、6月号に改めて歌を載せたいと考えていること、ふみ子の写真も欲しいとの要請も記されていた。ふみ子宛の葉書が実家を経由して届いたため、父、豊作の字で「大イニ感心ス」と添え書きされていた。 日本短歌社の「短歌研究」五十首応募の公称応募総数は1003作であったが、後に中井英夫は400通程度であったと明かしている。応募者の中には山中智恵子らの名前もあったが、当初、「短歌研究」の編集部が応募作品を一読した段階では特に優れた作品がある印象は無かった。編集部の当初案では野原水嶺がふみ子とともに五十首応募に投稿するように働きかけた大塚陽子の作が一位候補であったが、編集長の中井が改めて候補作を熟読する中で、ふみ子の作が大変に優れている確証を持ち、そして石川不二子の作品もこれまでにない優れたものであると判断した。中井ら「短歌研究」編集部が五十首応募の応募者に求めていたものは「美事な野心」であった。 五十首応募の結果発表の中で、「短歌研究」編集部は「いわゆる歌壇作品に比してこのくらいなら、という自信のもとに作品を投ぜられた方も多いだろうが、それは少なくとも美事な野心ではないはずである」と講評した上で、ふみ子の作品を「新しい精神への期待にやや応えてくれたものといえる。人によってはポーズの過剰に眉をひそめるかもしれないが、平明枯淡な身辺詠が主流となった現代短歌への反措提の一石を投ずるものであろう」と、評価した。 中井はふみ子の詠んだ50首を特選として掲載するに当たり、まず太宰治の作品と同名になってしまっている「冬の花火」ではなく、応募作の中の 救ひなき裸木と雪のここにして乳房喪失の我が声とほる から、「乳房喪失」を題名とすることにした。またあまりに作品の印象が強すぎて読者が付いていけなくなる恐れがあった歌と、出来が比較的劣ると判断した8首の発表を止め、42首で発表することとした。 ふみ子は五十首応募の1位入選に狂喜した。葉書が手元に届いたのは夜になってからのことであった。そして消灯時間後になってしまったが、早速入院中であった歌仲間のところに行き、「嬉しいのよ。これ、見て」と言いながら葉書を見せ、肩を抱き合って喜びを分かち合った。そして日記には1位入選の喜びとともに、葉書に添えられた父の「大イニ感心ス」と書かれていたこともまた嬉しかったと記している。 1位入選を喜びながらもふみ子は冷静であった。日記には受賞と父の誉め言葉に対する喜びとともに、「特殊な題材」のため宣伝用に注目されたに過ぎないのではとの推測を記した上で、まだまだ自信なしと書いている。ふみ子は早速中井英夫にお礼の葉書を送っているが、その内容は落ち着いたものであった。そして4月2日には父、豊作に1位当選をした喜びとともに、不景気の折、気が引けると言いながら、葬式は要らないから歌集を出したいとお願いする手紙を出している。結局、歌集の出版費用は1位入選を喜んだ父の豊作が負担することになり、出版の作業が進められることになった。
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