その後の評価と顕彰事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 06:13 UTC 版)
「中城ふみ子」の記事における「その後の評価と顕彰事業」の解説
全国歌壇デビュー後、演技性の高さや性愛のテーマとした作品に非難や戸惑いを見せていた歌壇も、やがてふみ子の短歌の価値を認め受容していき、その影響力の大きさから現代短歌の出発点と呼ばれるようになった。しかし歌人として活躍した昭和20年代から時が経つにつれて、古くなった面が指摘されたり、新たな視点からの批判を受けるようになる。 河野裕子は、まずふみ子の短歌の大きな特徴である演技性、ドラマ性の高さが、逆に時が経つにつれて歌が古くなった原因であると指摘している。昭和20年代、ふみ子が歩んだ離婚、様々な男性遍歴という出来事はショッキングなスキャンダルとして受け取られた。しかしやがて離婚などの出来事に対する世間一般のスキャンダル性は徐々に低下してきた。スキャンダル性が低下すれば受け取る側のドラマ性も低下せざるを得ない。そしてもう一つ、一見過激なテーマを詠んでいるようでふみ子の短歌はバランス感覚にも優れていて、常識や良識から大きくは外れていない一面があり、ドラマ性が低下したバランス感覚が優れた短歌は、結果として時代に遅れ、古くなった面があるとしている。 またふみ子の短歌は、女が男に所有される状況を受け入れ、それが幸せであるとする旧来の男女関係の視点から詠まれているとの指摘がある。この視点から昭和60年代に入ると、ふみ子の短歌について、既存の男性優位文化の所産であるとして反フェミニズム的との批判を浴びるようになった。しかしそれらの指摘、批判にも関わらず、ふみ子の短歌は評価され続けている。 1960年(昭和35年)8月3日、帯広神社境内にてふみ子の第1歌碑の除幕式が行われた。なお第1歌碑は1995年(平成7年)8月3日に十勝護国神社境内に改築されている。そして1983年(昭和58年)8月3日には、緑ヶ丘公園内に第2歌碑が建立された。 1965年(昭和40年)、ふみ子が所属していた「辛夷短歌会」は、社内賞として「中城ふみ子賞」を設定した。この「中城ふみ子賞」は、短歌結社「辛夷短歌会」内において新人賞のような位置づけの賞であった。「辛夷短歌会」の「中城ふみ子賞」は第20回まで継続するが、会を主宰していた野原水嶺の死去後、野原の妻であり後継者となった大塚陽子は賞を廃止する。大塚は「ふみ子はもはや「辛夷」だけのふみ子ではなく、歌壇全体において重要な存在であるから」と、廃止理由を説明した。 2004年(平成16年)は、中城ふみ子没後50年であった。没後50年を迎え、帯広市が中心となって「中城ふみ子賞」が制定された。「辛夷短歌会」の「中城ふみ子賞」は短歌結社内の社内賞であったが、2004年に制定された「中城ふみ子賞」は、賞の主催者は中城ふみ子賞実行委員会、短歌研究社、帯広市、帯広市教育委員会の四者であり、中城ふみ子が短歌研究五十首応募一位入選を機に全国歌壇デビューを果たしたことにちなみ、未発表作品50首を一般公募する形で行われ、受賞作は短歌研究誌上で発表されることになった。その後も隔年ごとに「中城ふみ子賞」の一般公募が行われており、2018年(平成30年)には第8回を数えている。また中城ふみ子没後50年に際しては、「中城ふみ子賞」制定と合わせた形で北海道新聞社から、これまで発行された歌集、「乳房喪失」、「花の原型」とともに、両歌集に収録されていない短歌作品を併せ、歌集「美しき独断」が出版された。 そして2006年(平成18年)に現在地に移転、オープンした帯広市図書館では、2階に「中城ふみ子資料室」が設けられた。資料館内にはふみ子の書簡、歌稿、日記といった資料が展示されている。
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