その後の諏訪氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 05:03 UTC 版)
諏訪氏は存続を許されたものの(同族で室町幕府に降っていた諏訪円忠(『諏方大明神画詞』の著者)の嘆願があったと考えられている)、大祝職を継承した子の頼継は南北朝の争乱が勃発すると足利氏への対抗上、南朝に与するが敗れ没落し、諏訪氏の大祝職と惣領は頼継の弟の信継の系統が引き継いだ。信継の子である直頼も南朝方および観応の擾乱時に南朝に降った足利直義派の武将として尊氏派と抗争したが、やがて信濃国内における南朝勢力の衰退を悟り、同じく諏訪円忠の勧告もあって北朝・室町幕府方へ降った。直頼の嫡子・信有の家系は、戦国時代の頼満、頼重に至る。 また、時継の子の継宗(異説では頼継)は、諏訪氏の有力支族である高遠氏の祖とされる。
※この「その後の諏訪氏」の解説は、「諏訪時継」の解説の一部です。
「その後の諏訪氏」を含む「諏訪時継」の記事については、「諏訪時継」の概要を参照ください。
- その後の諏訪氏のページへのリンク