その後の論争と最終的な受け入れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/06 01:39 UTC 版)
「冬至の生贄」の記事における「その後の論争と最終的な受け入れ」の解説
絵画は1983年から1984年にかけてストックホルムのスウェーデン国立歴史博物館で展示されたが、その後ラーションの遺族がスウェーデンの美術商に売却してしまった。美術商は国立美術館に購入をもちかけたが、購入委員会が断った。委員会は、申し込みを拒絶した理由を次のように述べた。すなわち、古代の北欧がモチーフであるなら国立歴史博物館がより適切であり、当時それは国立美術館と同じ建物にあったが、現在国立歴史博物館は独自の建物に移転しているので、絵画もそこに移すべきである。 この拒絶の後、絵画は、それを1,200万スウェーデン・クローナで国立歴史博物館に売却すると申し出たスウェーデンの美術蒐集家に売られた。蒐集家は絵画を国立歴史博物館に持ち込んだが、博物館は費用面の問題から購入ができなかった。しかし蒐集家によるこの申し入れが、一般の人々の間に、絵画が国立美術館もしくは国立歴史博物館にふさわしいのかどうか熟考する論争を引き起こすこととなった。議論は両極端の方向に向いていた。人々は、絵画がスウェーデン美術の非常に優れた傑作だとも、うさんくさい道徳観に満ちた作品だとも論じた。それでも1915年当時とは状況が異なり、多くの人々が絵画が国外に出てしまうことを心配し、国立美術館が所蔵すべきだという声が高まった。 しかし絵画は1987年に、ロンドンのサザビーズでの競売により、日本人の蒐集家「いしづか ひろし」(漢字不明)に売却された。 1992年に「いしづか」は、スウェーデン国立美術館開館200年記念「カール・ラーション大回顧展」の際に美術館に絵画を貸すことに同意した。里帰りした絵画は、本来飾られる予定だった場所に掛けられた。 この展覧会には30万人もの観客が訪れた。また、展示会が終わっても、所有者の厚意によって絵画はそのまま展示され続けた。この20世紀後半の観客達が、絵画が本来掛けられるべきだった美術館の階段ホールにおいて初めて絵画を観ることができたとき、世論は変わった。美術館は1997年、この絵画を日本人蒐集家から購入した。絵画は本来あるべきだった場所に永久に展示されることとなった。購入価格は1,460万クローナであった。スウェーデン国内では、絵がナショナリズムに基づく崇拝の対象になりかねないと危惧する声、また日本人蒐集家が強く希望して売却したが、日本円にして約1億3千万円で購入した絵を約2億1千万円で売却し約8千万円の差益を得ることとなったのを批判したともとれる声があった。
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