その後の貞吉とは? わかりやすく解説

その後の貞吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 15:51 UTC 版)

飯沼貞吉」の記事における「その後の貞吉」の解説

その後貞吉は貞雄と改名し明治3年1870年静岡三郎の塾(静岡学問所静岡市)に入り、後の海軍大将出羽重遠と共に学ぶが、翌年藤沢志摩守)次謙(奥医師桂川甫賢の3男)の書生となり、明治5年1872年)に工部省技術教場東京)に入所電信技師となり、同年10月5日には赤間関山口県下関市)に赴任その後国内各地での勤務経て1885年明治18年)に工部省逓信省変わった時には新潟勤務1891年明治24年)、広島電信建築電信建築長に就任2年後には東京郵便電信局勤務となり、翌1894年明治27年)には日清戦争のため、大本営付となり技術部総督階級陸軍歩兵大尉)として出征この間1892年明治25年6月18日付で戸籍訂正し生年真実嘉永7年改正している。1905年明治38年)、札幌郵便局工務課長となり、1910年明治43年)に仙台逓信管理局工務部長就任日本電信電話発展貢献した正五位勲四等受章会津会会員でもあった。 飯沼貞雄1881年明治14年)に広島藩松尾太郎の娘れんと結婚1882年明治15年)に長男一雄、1885年明治18年)に長女浦路1897年明治30年)に二男一精と3人の子恵まれた。しかし、一雄は日露戦争に出征して帰還した直後1906年明治39年)に札幌亡くなった原因赤痢という。一精北海道寿都出身の貞弘弘子と結婚し三男一女恵まれた。なお孫に石巻赤十字病院院長飯沼一宇国際医療福祉大学大学院教授飯沼一浩、甥に大正期から昭和終戦直後掛けて内務官僚貴族院議員などを歴任した飯沼一省がいる。

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