その後の貞吉
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その後、貞吉は貞雄と改名し、明治3年(1870年)静岡の林三郎の塾(静岡学問所、静岡市)に入り、後の海軍大将・出羽重遠らと共に学ぶが、翌年藤沢(志摩守)次謙(奥医師桂川甫賢の3男)の書生となり、明治5年(1872年)に工部省技術教場(東京)に入所、電信技師となり、同年10月5日には赤間関(山口県下関市)に赴任。その後、国内各地での勤務を経て、1885年(明治18年)に工部省が逓信省に変わった時には新潟に勤務。1891年(明治24年)、広島電信建築区電信建築長に就任、2年後には東京郵便電信局勤務となり、翌1894年(明治27年)には日清戦争のため、大本営付となり技術部総督(階級は陸軍歩兵大尉)として出征。この間、1892年(明治25年)6月18日付で戸籍訂正し、生年を真実の嘉永7年に改正している。1905年(明治38年)、札幌郵便局工務課長となり、1910年(明治43年)に仙台逓信管理局工務部長に就任、日本の電信電話の発展に貢献した。正五位勲四等を受章。会津会の会員でもあった。 飯沼貞雄は1881年(明治14年)に広島藩士松尾錬太郎の娘れんと結婚、1882年(明治15年)に長男一雄、1885年(明治18年)に長女浦路、1897年(明治30年)に二男一精と3人の子に恵まれた。しかし、一雄は日露戦争に出征して帰還した直後の1906年(明治39年)に札幌で亡くなった。原因は赤痢という。一精は北海道寿都出身の貞弘弘子と結婚し、三男一女に恵まれた。なお孫に石巻赤十字病院院長・飯沼一宇、国際医療福祉大学大学院教授・飯沼一浩、甥に大正期から昭和の終戦直後に掛けて内務官僚・貴族院議員などを歴任した飯沼一省がいる。
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