その後の解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/12 01:39 UTC 版)
宣長門は古道派と古典派に別れるも、次第に後者が大きくなっていた(『国史大辞典 5 け-こㇹ』 p.619)。さらに本居宣長の生前の門人を自称した平田篤胤が古道学の後継者を自任したが、「古道の解明」と言う目的は共通しているものの、方法も古道観も異なり、古道を事実とはみず、規範とみた(深谷克己 『江戸時代の歴史 日本の歴史6』 p.159)。篤胤は、天(アメ)・地(ツチ)・泉(ヨミ)からなる世界の始まりを説き、人が死後に行く幽冥での安心を説いたため、宣長門のひんしゅくを買ったが、それでもアジアや西洋の神話を用いて、世界の生成を解明しようとした(前同 p.159)。 篤胤の古道説は行動倫理としての思想運動的主張を含んでいたため、後代に影響を与え、幕末の尊王攘夷運動家として過激な破壊活動に挺身したものや明治維新後の廃仏毀釈運動に走るものを出した(『国史大辞典 5』 p.620)。
※この「その後の解釈」の解説は、「道 (国学)」の解説の一部です。
「その後の解釈」を含む「道 (国学)」の記事については、「道 (国学)」の概要を参照ください。
- その後の解釈のページへのリンク