その後の観音寺城の戦闘年表
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「観音寺城」の記事における「その後の観音寺城の戦闘年表」の解説
和暦西暦主な出来事文亀2年 1502年 六角高頼の被官である伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、六角高頼は音羽城に退避。その後和議を結ぶ。 永正13年 1516年 再び伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、観音寺城を攻撃したが敗北し浅井氏のもとに降った。 大永5年 1525年 六角定頼が江北に出陣していた隙をつき、伊庭氏が3度目の観音寺城を攻撃。この時は留守居役の後藤左衛門が対処した。 永禄6年 1563年 観音寺騒動が勃発。謀殺された後藤賢豊縁故の諸将が城下に乱入。放火により観音正寺などが焼失。
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