その後の被葬者をめぐる論議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 04:24 UTC 版)
「丸山古墳 (橿原市)」の記事における「その後の被葬者をめぐる論議」の解説
以前より地元ではこの檜前(ひのくま)の地に欽明天皇陵があるとの確証のない伝承があった。 『日本書紀』には欽明天皇は御代32年(571年)に没した後、河内古市(現・大阪府羽曳野市)での殯(もがり)の後に檜隈坂合陵(ひのくまさかあいりょう)に葬じ、欽明陵には推古天皇28年(620年)に葺石、盛土の記録が見える。現在欽明陵に比定されている梅山古墳は、丸山同様にかつての桧隈の地にあり、大規模な葺石も発見されているが、丸山古墳はこの形跡が見られない。 一方で、『日本書紀』推古紀に「推古天皇20年(612年)2月20日、皇太夫人堅塩媛(きたしひめ)を檜隈大陵に改葬し、軽の巷(かるのちまた)に「しのびこと」たてまつる」と見える。この「軽の巷」は当時の下ツ道と阿倍山田道の交点で現在の丈六交差点にあたり、丸山古墳の北側に位置する。堅塩媛は欽明天皇后であり推古天皇の生母でもあることから、改葬の理由を夫婦合葬とすれば、やはり欽明陵であった可能性が出てくることになる。 この他、当時蘇我氏が付近を根拠地としていたことから、蘇我稲目の名も被葬者に挙げられている。
※この「その後の被葬者をめぐる論議」の解説は、「丸山古墳 (橿原市)」の解説の一部です。
「その後の被葬者をめぐる論議」を含む「丸山古墳 (橿原市)」の記事については、「丸山古墳 (橿原市)」の概要を参照ください。
- その後の被葬者をめぐる論議のページへのリンク