こじまのはる【小島の春】
小島の春
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:15 UTC 版)
1934年8月末、小川正子は光田園長から高知県に患者収容に行くことを命じられた。一行は山田書記、青山看護長と小川正子である。難所をこえ、人が集まる所では講演や映写もおこなう旅で、また相当な僻地において、未収容のらい患者を診察する経験を記した手記である。 この山中に十年、二十年と病み住めば男といえどもどうして山を下れよう。ましてや家には純朴な一徹な無智善良な肉親と周囲があって伝染ということさえ知らずに同じ炉を囲んで朝夕。そして悲劇は何時の日までも果てしなく続けられていく。(中略)母に寄り添って立っていた十一歳という女の子、まととない愛くるしい顔、背中の二銭銅貨大の痛みのない赤い部分、白い跡はおできのあとと母親はいうのだが、水泡を疑うのは非か。七つの子をあやしつつ、いぶかしいと思うところをつついてみると痛くない。(中略)病人のほかに二人とも異常があることになった。私は言い出す術をしらなかった。強いて微笑んではきたけれど、すべてが「手遅れ(ツーレート)」であった。
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