東宝時代
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1942年(昭和17年)、東宝へ撮影助手として入社。 1945年(昭和20年)、召集、陸軍浜松航空隊の写真班員として中国大陸へ配属。復員後、東宝に戻る。
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東宝時代
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もともと大阪に定着する心積りはなく、望郷の念が高まる中、新興キネマ東京撮影所(現・東映東京撮影所)開設に伴い、1937年(昭和12年)3月末、同社に企劃部が新設されると、所長高橋歳雄と懇意の川村花菱の仲介で職を紹介され、東京への帰郷を果たした。現代劇映画の製作を初めて間もない8月末、高橋が人間関係のトラブルから辞職し、同様に辞職した。大阪に行く直前に仕事を薦められていた森岩雄から連絡があり、1938年(昭和13年)2月1日、東宝映画計劃部の嘱託となった。 同年7月、強羅ホテルとのタイアップ映画『虹立つ丘』のロケ中、箱根七曲り付近において、三菱重工業の満洲輸出のため試運転中だった大型トラックと衝突し、トラックと路側の石の間に足を挟まれ、左大腿骨を骨折した。淀橋区柏木にある遠縁の接骨医の治療を受け、3ヶ月の入院後、世田谷区成城の弟の家に行き、1938年(昭和14年)1月築地に帰宅した。3月1日には師の岡本綺堂が死去したが、看取ることができなかった。3月17日から湯河原温泉の大和屋で膝関節を曲げるリハビリを行った。 1939年(昭和15年)4月、東宝映画に正式に入社し、東宝と文学座により新設された俳優養成所の東宝側主任に就任した。1942年(昭和17年)7月、撮影所俳優課長に就き、俳優との契約取付に奔走した。 太平洋戦争が激化する中、1944年(昭和19年)点呼令状、1945年(昭和20年)5月には査閲が来たが、虚弱の体質と交通事故による左右脚長差により徴兵を免れた。 1945年(昭和20年)1月、空襲警報が頻繁に発令され、交通機関の運行が不安定になったため、撮影所近くの伊藤武雄宅に住み込み、仕事を続けた。 1945年(昭和20年)1月27日、銀座五丁目鳩居堂前に着弾した東京空襲では、七丁目の本社で企画会議中であり、強い振動を感じた。4月1日、企劃部に異動となり、軍事映画の製作に携わったが、資材が尽き中断すると、東宝喜劇として日本各地を巡業した。 東京大空襲では東宝関係の施設は被害が少なかったため、大きな被害を受けた松竹の演劇部を受け入れ、終戦後の9月に演劇部社外劇団課長に就任した。連合国軍最高司令官総司令部民間情報教育局と交渉しながら、戦時下とは全く異なる民主的な演劇を企画した。 1947年(昭和22年)8月、東宝争議の動乱の中、進駐軍の慰問を担当していた芸能事業部が東宝芸能事業株式会社として独立したため、その常務に就任した。帝都座で額縁ショー、次にセントラル劇場、国際劇場でストリップの興行を行った。
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東宝時代
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「高野悦子 (映画運動家)」の記事における「東宝時代」の解説
1951年(昭和26年)に日本女子大学を卒業すると、1953年(昭和28年)に東宝(文芸部)に入社した。東宝では専用に新設された部署で、日本企業として初めて各作品ごとの観客のマーケティングリサーチを実施した。1958年(昭和33年)に東宝を退社し、映画監督を目指してフランス・パリの高等映画学院(IDHEC)監督科に留学した。1962年(昭和37年)に日本に帰国すると、衣笠貞之助監督の助手を経て、テレビドラマ演出を目指し放送作家になった。オリジナル脚本3本と脚色1本を書き、1964年(昭和39年)にはテレビドラマ「巴里に死す」を脚色・演出した。 1965年(昭和40年)には、自ら原案を書いた『鉄砲物語』を日本・ポルトガル合作で映画化することを企画した。11カ月間ポルトガルに渡航して取材と調整を行い、シナリオ完成と合作準備を整えるが、帰国後には映画会社から脚本監督を他者に交代させられた。この企画は他者によって日米合作『鉄砲伝来記』として映画化されたことで、挫折して映画監督の道をあきらめた。脚本著作権で提訴したが後に和解し、『鉄砲伝来記』には原作者としてクレジットされた。なお、この際には賠償金のすべてをポルトガル合作関係者に渡している。
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東宝時代
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この頃、映画界から逃げ出したいという思いから宝塚歌劇団入りを考え、花柳章太郎と水谷八重子に相談したところ、水谷が宝塚音楽学校校長の小林一三に相談を持ちかけてくれ、無試験で入学を許可するという返事を貰った。しかし、翌1937年(昭和12年)早々にはP.C.L.企画課に務めていた藤本真澄から引き抜き交渉を受ける。引き抜きの条件は月給100円と撮影所近くの家の提供、女学校へ進学させるというもので、それに承諾した秀子は同年1月に松竹を退社してP.C.L.に移籍した。4月には約束通り御茶ノ水の文化学院に入学した。 P.C.L.移籍第1作は、吉屋信子原作・山本嘉次郎監督の『良人の貞操』で、千葉早智子演じる邦子の妹・睦子を演じた。続いて横山隆一の連載漫画を原作とした『江戸っ子健ちゃん』で榎本健一と共演。同年9月にP.C.L.は東宝映画となり、以後も数々の作品に出演、岸井明が命名したデコの愛称で撮影所のペット的存在となった。1938年(昭和13年)には山本監督の『綴方教室』で主演する。これは当時のベストセラーとなった豊田正子の綴方集の映画化で、貧乏の中でもも明るく強く生きる少女を演じて最初期の代表作とした。その一方、仕事の忙しさから文化学院への登校は月に2、3日程度となり、担任教師の河崎なつから「このさい、学校をとるか、仕事をとるかはっきり決めてほしい」と言われ、入学1年半にして退学を余儀なくされた。 東宝ではますます売れっ子となり、1939年(昭和14年)は9本の作品に出演。アイドルとしての人気も高まり、秀子の名前を冠した映画も作られた。『秀子の応援団長』では主題歌「青春グラウンド」を歌いレコードも発売されたが、B面の灰田勝彦が歌う挿入歌「燦めく星座」の方が人気となり、40万枚の大ヒットを記録した。『秀子の車掌さん』は後にコンビを組む成瀬巳喜男監督との初顔合わせ作品である。1940年(昭和15年)、豊田四郎監督の『小島の春』でハンセン病患者を演じた杉村春子の演技にショックを受け、今まで仕方なしにやっていた役者の仕事に本気で取り組もうと決意した。また、声楽家の奥田良三と長門美保に師事して発声を学び、戦中は音響設備のない戦地での慰問公演や歌手活動などを行った。 1941年(昭和16年)、山本監督の『馬』に主演。東北の四季折々の風景の中で、農家の少女と彼女の育てる仔馬の触れ合いをセミドキュメンタリーに描いた作品で、撮影には足かけ3年を費やしたが、撮影中に製作主任でB班監督の黒澤明と恋に落ちる。志げの反対で恋は不実となったが、自伝『わたしの渡世日記』にこのエピソードが記されている。1945年(昭和20年)7月、山本監督の『アメリカようそろ』の撮影のため千葉県の館山に滞在し、洲崎航空隊での慰問公演終了後に終戦を迎えた。特攻隊員を扱った『アメリカようそろ』の製作は中止となっている。
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東宝時代
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若人の歌(1951年) 慶安秘帖(1952年) 金の卵(1952年) 東京の恋人(1952年) 丘は花ざかり(1952年) ひまわり娘(1953年) 愛情について(1953年) 幸福さん(1953年) 今宵ひと夜を(1954年)※宝塚映画 かくて夢あり(1954年)※日活 悪の愉しさ(1954年)※東映東京 まごころの花ひらく・女給(1955年)※東映東京 サラリーマン・目白三平(1955年)※東映東京 アツカマ氏とオヤカマ氏(1955年)※新東宝 サラリーマン・続目白三平(1955年)※東映東京 へそくり社長(1956年) 続へそくり社長(1956年) 鬼火(1956年) 好人物の夫婦(1956年) おかしな奴(1956年) 大番(1957年) 続大番・風雲篇(1957年) 下町(1957年) 続続大番・怒濤篇(1957年) 弥次喜多道中記(1958年) 大番・完結篇(1958年) 弥次喜多道中双六(1958年) 狐と狸(1959年) 若い恋人たち(1959年) 羽織の大将(1960年) がめつい奴(1960年) 銀座の恋人たち(1961年) 香港の夜(1961年) 二人の息子(1961年) 香港の星(1962年) 河のほとりで(1962年) 女に強くなる工夫の数々(1963年) 大番・総集篇(1963年) ホノルル・東京・香港(1963年)※香港キャセイ・オーガニゼーションと東宝の合作。 みれん(1963年) 裸の重役(1964年) 団地七つの大罪(1964年)※東京映画。筧正典と共同監督。 バンコックの夜(1966年) 沈丁花(1966年) 春らんまん(1968年) 河内フーテン族(1968年)※宝塚映画 若者よ挑戦せよ(1968年) 水戸黄門漫遊記(1969年) 飛び出せ!青春(1973年)※テアトロプロ。監修のみ。
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