東宝文化映画部から日本映画社へ
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「三木茂 (撮影監督)」の記事における「東宝文化映画部から日本映画社へ」の解説
1937年に成立した東宝第二製作部(通称「文化映画部」)が映画法の下で盛んに記録映画を製作するようになり、1939年、スタッフとして参加。 1941年、社団法人日本ニュース社に東宝文化映画部が吸収され、社団法人日本映画社へ改組。移籍する。 1944年、柳田國男とともに、『雪国の民俗』(村治夫・編集、勝平得之・装幀)を養徳社より刊行。 1945年9月、広島・長崎の原爆記録映画班に山中真男、鈴木喜代治、藤波健彰、栗田玄忠、坂齋小一郎らとともに参加。三木は、土木・建築班。 この時期に関与した作品1939年、亀井文夫監督『戦ふ兵隊』(東宝映画文化映画部)撮影。 1940年、木村荘十二監督『海軍爆撃隊』(東宝映画東京)撮影。 1941年、柳田國男と出あい、『土に生きる』(日本映画社)撮影・監督。 1942年、『マレー・戦記 第二部 昭南島誕生』(日本映画社)原作・撮影。
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