大蔵映画の設立
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1962年、大蔵は「富士映画」と「大和フィルム」を統合し、「大蔵映画株式会社」を設立する。70ミリ超大作『太平洋戦争と姫ゆり部隊』と『明治大帝御一代記』(事実上は、新東宝時代の“明治天皇三部作”を無理やりフィルムを倉庫から持ち出した総集編)に巨額の資金を傾注する。膨大な人馬のエキストラなどは今なお語り草であるが、演出の弱体(前者は小森白が、後者は大蔵自身が全体の監督、新撮部分は小林悟と渡辺邦男が演出した)や大作を受け止める興行網の不在から大赤字となる。大蔵映画ではプロデューサー体制は採らず、大蔵自身がすべての脚本を読み細かいチェックや指示を出していた。 その後、何本かの怪談映画等を経てピンク映画専門の会社になるが、これは本意では無かったと語っている。 1978年(昭和53年)9月15日、急性肺炎のため死去した。大蔵は死の床でも企画書や脚本を広げ、手を入れていた。
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