大蔵永季
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/29 03:59 UTC 版)
大蔵永季(おおくらながすえ、1056年 - 1104年?)は、大蔵永興の嫡子とされるが何代目であるかは定かではなく、矢野貞一は『筑後国史』で『豊西記』は妄誕が多いとして豊後大蔵氏の初代とし、『豊後国日田郡司職次第』には大蔵姓65代とあり、『豊西記』では永弘を2代として永季を3代としている。豊後の大蔵氏の人物として伝説の域を出て歴史に登場する人物である。 本名を日田鬼大夫大蔵朝臣永季という。俗に「日田どん」とも呼ばれる。『後二条師通記』では「長季」という表記で登場する。ほか、『小右記』『中右記』『御堂関白記』に登場する。 相撲の名手であり、京で行なわれた「相撲節会」(すまいのせちえ)に出場した記録が残り、『豊後国日田郡司職次第』には、相撲節会に10回出場し無敗であったとある。昔話には出雲小冠者との取り組みが語られ、同様の伝説が『豊西記』に載る。大原八幡宮の大鳥居にある「大波羅野御屋新呂」の変額の書は、永季の相撲節会勝利祈念に大江匡房が書いたものであると同神社に伝わる。永季を祀る日田神社は、相撲の神として角界の崇敬を受けている。 1104年(長治元年)京からの帰りの道中、風邪をひき大肥庄(現・日田市大肥町・大鶴町あたり)にて没したといわれる。
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