東宝照明部の四天王
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同年、ふたたび東宝に戻り、東宝撮影所の照明技師として契約した。西川の東宝復帰第1作は、笠置シヅ子・柳家金語楼の主演作『大岡政談 将軍は夜踊る』(監督丸根賛太郎、撮影完倉泰一)、同作は同年5月27日に公開された。1951年(昭和26年)には、溝口健二が監督した『武蔵野夫人』(主演田中絹代、同年9月14日公開)や成瀬巳喜男が監督した『めし』(主演上原謙・原節子、同年11月23日公開)で撮影技師玉井正夫(1908年 - 1997年)と組み、いずれも西川の代表作となる。 1952年(昭和27年)4月17日に公開された『浮雲日記』(監督マキノ雅弘、撮影山崎一雄)には西川も参加したが、同作に出演した第1期東宝ニューフェイスの鳳弓子とマキノが結婚する際に「雅弘はん!あんたの奥さんが決ったんや!」と言い、マキノが「えッ、誰れや」と問うと「鳳弓子はんや…」と答えて引き合わせたのが西川であった。公私にわたるつきあいの深いマキノの結婚を経て、同年12月4日に公開されたマキノの代表作となる『次郎長三国志 第一部 次郎長売出す』に参加、撮影技師は山田一夫(1919年 - 2006年)と飯村正(1918年 - 2004年)とが交代したが、照明技師は西川ひとりが同シリーズ全9作に参加した。 この時代の西川について、当時助監督であった丸林久信(1917年 - 1999年)が、のちに連載の一章のうち半分を割いて記述している。「相撲取りぐらいの巨体の持主であり、映画界で彼の名を知らない者はもぐりといわれるほど、名の通った名物男、ライトマン中のライトマン」「一見、ひと当たりのよさそうな好人物にみえるが、それがくせもの、ひとたび臍が曲がるとどこまでも曲がって、手に負えぬ癇癪持ちに変貌する」と丸林は描く。丸林は「鶴さん」、その後輩の高瀬昌弘(1931年 - )は「鶴やん」という西川の愛称をそれぞれの著作で紹介している。『特急にっぽん』や『天国と地獄』の森弘充(1922年 - 1974年)、『野良犬』や『山の音』の石井長四郎(1918年 - 1983年)、『生きものの記録』や『蜘蛛巣城』の岸田九一郎(1907年 - 1996年)とともに「東宝照明部の四天王」と並び称されたのもこの時代であり、そのなかでも「東宝でもっとも速い男」と呼ばれた。その速さの秘訣としては、高瀬昌弘が「早くというより少量のライトしか使わずに見事な効果を上げた」と指摘している。西川のその手法の源泉について、高瀬は「千恵プロ当時、他の撮影所の五分の一という四台のライトしか、使えぬ為の工夫からであったのかも知れない」と推察する。戦前・戦中の東宝映画に所属した前述の照明技師の藤林甲は、新東宝を経て日活に移っており、この時代の東宝にはいなかった。 映画界への40年の貢献を記念し、1965年(昭和40年)12月1日、日本映画製作者連盟が主催する第10回「映画の日」永年勤続者表彰を受ける。このときに『キネマ旬報』に西川が寄せた小文には、自らを電球に譬え、「古くなつた電球は、そろそろ新しく取り替える時期かもしれないが、私の電球はまだまだ使えるつもりでいる」と記している。岡本喜八の代表作のひとつである『殺人狂時代』を手がけたのはその翌年末であり、満40年を迎えての現役宣言以降、4年にわたり14本の作品を手がけた。 1969年(昭和44年)11月1日には、西川が照明を手がけた『水戸黄門漫遊記』(監督千葉泰樹、主演森繁久彌)が公開されたが、そのわずか3か月後、1970年(昭和45年)2月5日、死去した。満59歳没。おもな弟子には中山治雄がいる。東宝のプロデューサーであった西川紀之(1934年 - )は長男、東映京都撮影所照明部の重鎮、増田悦章(1931年 - )は甥である。
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