東宝移籍以後
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1938年(昭和13年)11月、海軍のペン部隊に映画人代表として参加し、広東などへ従軍。帰還後の1939年(昭和14年)5月、松竹を退社して東宝へ移籍する。2年前に東宝へ移籍した林長二郎改め長谷川一夫と再びコンビを組み、『蛇姫様』前後篇、『川中島合戦』を発表。戦中は国策もの2本を製作するにとどまった。 1946年(昭和21年)、明治開化期の鉄道建設を巡る利権争いを、東宝オールスターで描いた喜劇映画『或る夜の殿様』が戦後第1作となり、翌1947年(昭和22年)に島村抱月と松井須磨子の恋愛事件を描いた『女優』、オムニバス映画の『四つの恋の物語』第4話を監督後、東宝を退社してフリーとなる。同年、長谷川と山田五十鈴が設立した新演伎座の顧問となり、同座製作で『小判鮫』を製作するも、東宝争議もからんで不評となり、『甲賀屋敷』を大映との提携で製作してヒットしたことから、1950年(昭和25年)に長谷川と共に大映の専属となった。 『紅蝙蝠』『月の渡り鳥』『修羅城秘聞』『大佛開眼』などの娯楽時代劇を次々と発表した衣笠は、1953年(昭和28年)にイーストマン・カラーを日本映画で初めて使用し、華麗な色彩美で描いた歴史映画『地獄門』を監督。第7回カンヌ国際映画祭グランプリと第27回アカデミー賞名誉賞・衣裳デザイン賞、第20回ニューヨーク映画批評家協会賞外国語映画賞を受賞し、国際的にも高く評価された。 1956年(昭和31年)3月、大映の重役に推挙され、以後は重役監督として年間2、3本の作品を発表していく。『新・平家物語 義仲をめぐる三人の女』『月形半平太 花の巻・嵐の巻』といった大作時代劇を製作する一方、ミス日本から大映に入社した山本富士子を起用して、泉鏡花原作の『婦系図 湯島の白梅』『白鷺』『歌行燈』『みだれ髪』で彼女をスターに育て上げた。特に『白鷺』は第12回カンヌ国際映画祭で特別表彰を受け、その日本的情緒は世界的にも評価が高かった。山本に対して衣笠は、女形出身の経歴を生かしてシーンごとに自分で演じてみせるなど事細やかな指導を行った。 1966年(昭和41年)、大映とソ連のゴーリキー撮影所(ロシア語版)との合作になる『小さい逃亡者』でモスクワ国際映画祭児童映画部門金賞を受賞するが、これを最後に映画監督を引退する。引退後は『鯉名の銀平』『沓掛時次郎』など東宝歌舞伎の演出にあたった。 1982年(昭和57年)2月26日、脳血栓のため京都府京都市右京区の自宅で死去。86歳没。没後、遺品は東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈され、一部は展示室で公開されている。墓は等持院にある。
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