東宝移籍以後とは? わかりやすく解説

東宝移籍以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 04:18 UTC 版)

衣笠貞之助」の記事における「東宝移籍以後」の解説

1938年昭和13年11月海軍ペン部隊映画人代表として参加し広東などへ従軍帰還後1939年昭和14年5月松竹退社して東宝へ移籍する2年前に東宝へ移籍した林長二郎改め長谷川一夫と再びコンビ組み、『蛇姫様』前後篇、『川中島合戦』を発表戦中国策もの2本を製作するとどまった1946年昭和21年)、明治開化期の鉄道建設を巡る利権争いを、東宝オールスター描いた喜劇映画或る夜の殿様』が戦後第1作となり、翌1947年昭和22年)に島村抱月松井須磨子恋愛事件描いた女優』、オムニバス映画の『四つの恋の物語第4話監督後、東宝退社してフリーとなる同年長谷川山田五十鈴設立した新演伎座顧問となり、同座製作で『小判鮫』を製作するも、東宝争議からんで不評となり、『甲賀屋敷』を大映との提携製作してヒットしたことから、1950年昭和25年)に長谷川と共に大映専属となった。 『紅蝙蝠』『月の渡り鳥』『修羅城秘聞』『大佛開眼』などの娯楽時代劇次々と発表した衣笠は、1953年昭和28年)にイーストマン・カラー日本映画初め使用し華麗な色彩美で描いた歴史映画地獄門』を監督第7回カンヌ国際映画祭グランプリ第27回アカデミー賞名誉賞衣裳デザイン賞、第20回ニューヨーク映画批評家協会賞外国語映画賞受賞し国際的に高く評価された。 1956年昭和31年3月大映重役推挙され以後重役監督として年間2、3本の作品発表していく。『新・平家物語 義仲をめぐる三人の女』『月形半平太 花の巻・嵐の巻』といった大作時代劇製作する一方ミス日本から大映入社した山本富士子起用して泉鏡花原作の『婦系図 湯島の白梅』『白鷺』『歌行燈』『みだれ髪』で彼女をスターに育て上げた。特に『白鷺』は第12回カンヌ国際映画祭特別表彰を受け、その日本的情緒世界的に評価高かった山本に対して衣笠は、女形出身経歴生かしてシーンごとに自分演じてみせるなど事細やか指導行った1966年昭和41年)、大映ソ連ゴーリキー撮影所ロシア語版)との合作になる『小さい逃亡者』でモスクワ国際映画祭児童映画部門金賞受賞するが、これを最後に映画監督引退する引退後は『鯉名の銀平』『沓掛時次郎』など東宝歌舞伎演出あたった1982年昭和57年2月26日脳血栓のため京都府京都市右京区自宅死去86歳没。没後遺品東京国立近代美術館フィルムセンター寄贈され一部展示室で公開されている。墓は等持院にある。

※この「東宝移籍以後」の解説は、「衣笠貞之助」の解説の一部です。
「東宝移籍以後」を含む「衣笠貞之助」の記事については、「衣笠貞之助」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「東宝移籍以後」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「東宝移籍以後」の関連用語

東宝移籍以後のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



東宝移籍以後のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの衣笠貞之助 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS