ブリタンニア遠征
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「第9軍団ヒスパナ」の記事における「ブリタンニア遠征」の解説
紀元前43年、クラウディウスの命令で第14軍団ゲミナと第20軍団ウァレリア・ウィクトリクス、そして第9軍団のブリタンニア遠征を命じ、アウルス・プラウティウスを司令官としてブリタンニアへ出征した。そしてカエシウス・ナシカの指揮で52年から57年の反乱を鎮圧、しかし現地の女王ボウディッカの反乱で軍団からは多数の戦死者を出し、指揮官ケリアリスの采配のもと兵力をゲルマニアから補充する。記録として65年に第2軍団アディウトリクスの後任という形でヨークへ移転、この地を2世紀まで本拠としていた。しかしながら83年には遠征の援軍とために一部がゲルマニアに、また恐らくはトラヤヌスの治世にもダキア戦争のために一部が東方属州の支援に割かれていたと推測されている。
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ブリタンニア遠征
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「グナエウス・ユリウス・アグリコラ」の記事における「ブリタンニア遠征」の解説
ウェスパシアヌスの任命によりマルクス・ロスキウス・コエリウスの後任としてブリタンニア駐留の第20軍団ウァレリア・ウィクトリクスの司令官に命ぜられる。ブリタンニアは四皇帝の年以降、毎年のように反乱に悩まされるようになり、また属州総督のマルクス・ウェッティウス・ボラティヌスは穏便な人物であったため事態に対応できず、より強硬的な人物であったクィントゥス・ペティリウス・ケリアリスが総督として変わった。そしてケリアリスの指揮のもとアグリコラは自らの才能を披露する。75年に任務が終わり、アグリコラはパトリキに追加され、ガリア・アクィタニアの総督となる。77年にはローマに帰還、そして補欠執政官として選ばれた。翌年にはタキトゥスに娘を与え、娘婿とする。そしてブリタンニアに総督として再び赴いた。 78年の夏、アグリコラはのローマ騎兵を殲滅させたオルドウィチ族を討伐のため北ウェールズに遠征、そして北上、モナ島に上陸する。ここは61年にスエトニウス・パウリヌスにより撤退したが、ブリタンニア現地人により回復していた。アグリコラはこの地をローマ化、すなわちローマ式の建物を建て地位の高い者の子息をローマ式の教育を与える事により行政で高い評価を受ける。また彼はカレドニアにも遠征、ローマ軍をタウス川よりも北に北上し、城塞を築いたと言う。 82年には「初めて船で航行しローマ人には知られてはいない民を撃ち破った」とされるが、それがどこの民を指しているのかは現在では意見が分かれている。現在の学者のほとんどはクライド川河口であったというが、ある者はアイルランドではないかとも言っている。確かにアグリコラはアイルランドと面するブリタンニアの沿岸部に城塞を築いており、またタキトゥスの記述では、養父アグリコラは1つのレギオーと現地の補助兵で島を征服できうると言っていたと伝えている。しかしながら現時点では詳しくは分かってはいない。 翌年、アグリコラはカレドニア遠征に再度軍を召集、大多数のカレドニア現地人はローマに対して反抗、第9軍団ヒスパナが攻撃される。アグリコラはこれに対して騎兵を派遣、撃退に成功、ローマ軍を北上させ、北へと追い詰める。この時彼には息子が生まれたが、同年夭折した。84年夏にはカルガクスのもとに結集したカレドニアの武装勢力(タキトゥスによれば30,000人以上)に対抗、モンス・グラウピウスの戦いで敗った。カレドニア側の戦死者は10,000人以上、ローマの戦死者は360人ほどであった。そしてローマに対抗する勢力を鎮圧できたと判断を下し、軍を南下させた。またアグリコラはこの時、一軍を海路でもって北上調査させた。これによりブリタンニアが島であることが確認された。
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