支配の拡大と反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 18:58 UTC 版)
属州ブリタンニアの統治は、基本的に圧倒的な軍事力による武断統治である。総督には代々軍団長やそれに準じる経験を持つ者が就任し、前述のカムロドゥヌムは退役兵に住まわせるための植民市とした。各軍団は、時代により異動があるもののコーンウォール地方のイスカ・ドゥムノニオルム(現エクセター)、ウェールズ南部のイスカ・シルルム(現カーリーアン(英語版))、ノーサンブリアのエボラクム(現ヨーク)、ウェールズ北部のデウァ(現チェスター)にそれぞれ正規軍団要塞を構え、各方面の辺境を守備するとともに属州領内部を監視した。領土内では、従属させた各部族をそのままローマ式の行政単位(キウィタス)に改変し、税を課した。しかし一方で、従順な部族の権利は実質的に温存された。また、ローマ軍に協力した隷属部族(イケニ族、アトレバテス族(英語版)、レグニ族など)は一時的に独立が許されたが、王統が途絶えると軍事力でもって強制的に属州領に併合させられた。属州ブリタンニア最大の先住民反乱であるボウディッカの反乱もイケニ族の併合に端を発する動乱であった。 以上のような統治体制の下で属州ブリタンニアは比較的安定し、アグリコラ総督の時代(78年 - 85年)にはカレドニア(スコットランド)北部を除くほぼ全領域を支配、属州時代最大の版図を現出した。 しかしそれ以降は北部のスコット族からの圧力が強まり、五賢帝時代には北方前線が後退するとともにハドリアヌスの長城、アントニヌスの長城が築かれた。補助軍の基地の一つヴィンドランダ(英語版)遺跡には当時の守備兵の風俗を伝える大量の木簡文書が発見されている。 ブリタンニアには前述の通り多数のローマ軍が駐在し、総督には皇帝の信頼が厚い熟練した人材を充てられることが多かった。このためブリタンニア総督を経験した皇帝は少なくない。ペルティナクス、ゴルディアス1世がこれに含まれる。 193年にローマ皇帝となったセプティミウス・セウェルスと、皇帝位を争ったクロディウス・アルビヌスは、ブリタンニア総督であった。アルビヌスの戦死後、セウェルスはブリタンニアを上ブリタンニアと下ブリタンニアの2州に分割した。この分割は、ほぼ1世紀にわたって反乱を防いだものの、カラウシウス(286年 - 297年)の反乱が起こり、コンスタンティウス・クロルスがブリタンニアをさらに4州に分割した。
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