衰退と放棄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/13 14:28 UTC 版)
「メンフィス (エジプト)」の記事における「衰退と放棄」の解説
ローマ人の到来とともに、メンフィスはもう1つの古都テーベと同じようにその重要性を失った。アレクサンドリアはメンフィスよりもローマ帝国内の交通の要衝として有利な位置にあった。ローマ人のメンタリティーに適合した習合神セラピス信仰の隆盛、そしてキリスト教が出現しエジプトに深く根付くようになったことで、メンフィスの古代からの宗教は完全に衰亡した。この都市は徐々に放棄され、ビザンティンとコプトの時代には存在しなくなった。そして7世紀にはエジプトを征服したアラブ人たちは、新たな首都フスタートやその他の居住地を周囲に作るためにメンフィスを採石場として用いた。13世紀、アラブ人の年代記作家アブド・アッラティーフ・アル=バグダーディー(英語版)(Abd al-Latif al-Baghdadi)がこの地を訪れ、その遺跡の壮大さを証言している。 「広大な市域と悠久の歴史を持つメンフィスは、現れては去る数多くの施政者から軛を負わされてきたにもかかわらず、また一つならぬ国家がこの都市を破壊し、地上からその痕跡を一掃し、その柱石を奪い去り、それを飾ってきた彫像を毀損しようとあらゆる手を尽くしたにもかかわらず、そして人の仕業のみならず4000年以上の時の経過を受けながらも、その遺跡は依然として見る者の目に、賢人をして惑わしめ、最も熟練した文筆家をして筆致の及ぶところにない驚嘆を与える。この都市を見れば見るほど我々の称賛の念は湧きあがり、遺跡に向ける次なる視線は新たな歓喜の源である。(中略)メンフィスの街はいかなる方向にも半日かかる広がりがある。」 今日残っている遺構はアル=バグダーディーが目撃したものと比べれば無に等しいが、それでも彼の証言は多くの考古学者の研究に影響を与えている。19世紀の最初の調査と発掘、そしてフリンダーズ・ピートリーによる発掘は、古の都の栄光の一端を明らかにした。墓、マスタバ、神殿、ピラミッドを含むメンフィスとそのネクロポリスは1979年にUNESCOの世界遺産(「メンフィスとその墓地遺跡-ギーザからダハシュールまでのピラミッド地帯」)に登録された。
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