衰退と崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/21 09:32 UTC 版)
1800年代後半には、コングの支配力と貿易統制力は著しく低下した。商業やイスラーム的学術の面におけるその都市の重要性は変わらなかったが、その独立性と勢力圏は減少した。 1880年代になると、かねてよりアフリカ内陸部への進出を目指していたフランスがコナクリを拠点に植民地獲得を活発化させ、1888年2月20日には、フランス領スーダンを発ったルイ=ギュスターヴ・バンジェ(英語版)がコングに来訪し、フランス領西アフリカの一部としてその地域を統治する旨の諸協定を現地の首長らと結んだ。これらの協定によってコングは、フランスとワスルー帝国間のマンディンゴ戦争(英語版)における前線として、サモリ・トゥーレによる重要な攻撃目標となった。1893年にはバンジェを初代総督とするコートジボワール植民地が成立したが、依然としてトゥーレによる抗戦が続くなかの1897年、ついに彼がコング最後の軍を打ち破ってコングの街を焼き払い、セク王家は北へ逃れた。 王族の生存者はブラック・ヴォルタ地域に避難して領土を分割し、それらはフランス人に「コングの国(Les Etats de Kong)」と呼ばれた。これらの諸王国はフランスの植民地行政との関連性を失う前に、短期間存続した。コングの都市はフランス人によって再建されたものの約3,000人の住民が戻ったのみであり、著しく衰退していった。
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