衰退と再生の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/07 23:10 UTC 版)
「河崎 (伊勢市)」の記事における「衰退と再生の動き」の解説
明治時代になると山田を「神都」とすべく、河崎にあったすべての寺院が廃寺となった。1889年(明治22年)に入り町村制が施行されると、宇治山田町の1つの地区となる。1906年(明治39年)、宇治山田町が市に昇格。初代市長・北川矩一は当地から輩出された。川筋参宮は1893年(明治30年)の参宮鉄道(現JR参宮線)の開通による交通網の発達で明治末頃に見られなくなった。産業構造の変化も影響し、河崎は衰退していったが、神都線(路面電車)が河崎駅を設置したので、古市ほどの劇的な衰退はなかった。宇治山田市は第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)7月に空襲を受けた(宇治山田空襲)が、河崎町は戦災を逃れた。しかし、高度経済成長の時代に入ると陸上輸送が主流となり、河崎の物資集散地としての地位も失われた。 1957年(昭和32年)、市立伊勢総合病院が河崎町に開院。(1980年〔昭和55年〕に移転。)1966年(昭和41年)、河崎に住居表示が導入、丁目が設定された。 1974年(昭和49年)7月7日、集中豪雨によって洪水が起き、勢田川流域を中心に甚大な被害が出た。これは発生した日にちなみ「七夕水害」と呼ばれている。翌年から国の事業による勢田川改修が始まった。この河川改修では川幅の拡張が検討され、1976年(昭和51年)川に面した89戸の立ち退きが求められた。ここで河崎の住民が立ち上がり、町並み保存運動を開始する。この運動は結実し蔵は守られた。一時期の停滞の時期を経て、1999年(平成11年)には活動団体が「NPO法人伊勢河崎まちづくり衆」となった。2002年(平成14年)には同法人の活動拠点「伊勢河崎商人館」が開館、2004年(平成16年)には伊勢の伝統工芸品である伊勢春慶を復活させるべく、「伊勢春慶の会」が発足した。 伊勢河崎商人館の開館により、河崎は観光地として注目が集まっている。しかし、観光地として成長するには観光客向けの商店・飲食店がまだ少ないことが課題である。
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