衰退と変容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/12 04:39 UTC 版)
労働運動は1920年代には既に、社会主義の源流を無視しており、建設的な行動を通じた国家樹立に専念。とは言えツァホールによると、運動の指導者は「基本的イデオロギー的諸原理を捨て切れなかった」という。しかしながら、ゼエヴ・シュテルンヘルの著書『イスラエル建国神話』によると、労働運動の指導者は1920年までには既に社会主義の諸原理を放棄し、「(組合員を)動員する」ための方便として用いたとされる。 1967年に第三次中東戦争が発生して以後、卓越した労働シオニストの中には、グレーター・イスラエルに賛同し、イスラエル政府に戦争中占領した全地域を保持し入植させるよう求めた者がいた。 この運動において左翼ナショナリズムと関係が深い人物としては、ラチェル・ヤナイト・ ベン=ツヴィやイツハク・タベンキン、ツィヴィア・ルベトキン、エリエゼル・リヴネー、モーシェ・シャミール、ツェヴ・ヴィルナイ、シュムエル・アグノン、イッセル・ハレル、ダン・トルコフスキー及びアヴラハム・ヨッフェがいる。 1969年のクネセト選挙では「イスラエルの土地のためのリスト」から立候補したが、議席獲得に必要な得票率は得られなかった。1973年のクネセト選挙を前にリクードに参加、39議席を獲得。1976年には国家リストと独立中道(自由中道からの離脱者が結成)に合流し、ラアムを結成する事となる。ラアムは1984年にへルートと合併するまで、リクード内の1派閥に留まった。 一方、イスラエル労働党で主流を占めるようになった労働シオニストは、第三次中東戦争中に獲得した領域を放棄するよう強く求めている。1993年のオスロ合意調印までには、これがイツハク・ラビン政権下における労働党の中心的な政策となった。 現在労働シオニズムと他のシオニズム潮流とを区別するのは、資本主義の分析に代表的な経済政策ではなく、程度の差こそあれ、イスラエルとパレスチナとの和平プロセスに対する態度である。イスラエルの国境や外交政策へのこうした態度は、ここ数10年でグレーター・イスラエルを支持する社会主義的シオニストが肩身の狭い思いを余儀無くされる程度にまで、労働シオニスト組織を支配する事となる。 イスラエルでは、労働党がイギリス労働党のような社会民主主義政党の常道を踏襲しているが、アミール・ペレツ党首の下で福祉国家の再認識が進んでいるとは言え、現在では資本主義や新自由主義さえ全面的に肯定。 イスラエル労働党やその前身は皮肉にも、1977年のベギン革命以来、労働者階級が伝統的にリクードに投票している一方で、支配階級や政治的エリートを代表する存在として、イスラエル社会に受け入れられているのが興味深い。
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