衰退と再建
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 14:16 UTC 版)
1569年のルブリン合同によって、リトアニア大公国がポーランド王国と一体化した後、城は王家の財産のまま残った。しかし街の重要性は次第に衰えていった。ヴィリニュスが近いことと、連合の政治中心地クラクフがさらに重要となったためである。それでも、街には地方議会セイミク (Sejmik) が置かれていた。ポーランド語の文献によると、街の名前はトロキ (Troki) とされ始めた。1477年、トラカイ島城はカジミェシュ4世とヴェネツィア共和国の全権公使が面会する場所となった。後には、城は政治犯を収容する豪華な監獄となったこともある。ジグムント1世は、陰謀を企んだとしてリトアニア貴族ゴスタウタイ家 (Goštautai) の一員をトラカイ島城に閉じこめた。ポーランド王アレクサンデルの未亡人ヘレナは、モスクワ大公国軍から逃げられないようにトラカイにとどめ置かれた。ジグムント1世によって城は外観を一新し、彼はここを夏の離宮とした。しかし、1548年に彼が死ぬと、城は次第に荒れるがままにされた。 ロシア・ポーランド戦争の間、1654年から1667年にかけ街は略奪され火を放たれた。1655年には、モスクワ大公国との戦争の影響で、どちらの城も荒れ果て、街の繁栄はついに終焉を迎えた。城の廃墟は、歴史的なランドマークのままだった。大北方戦争(1700年 - 1721年)では、トラカイは再び略奪され、国中が襲われていた飢饉とペスト流行に見舞われた。 1795年のポーランド分割後、トラカイを含むこの地域はロシア帝国に併合された。第一次世界大戦後、一帯はポーランドが占領した。1929年、ポーランド当局はトラカイ島城の再建を命じた。城上階の事業は1939年にほぼ完成した。同じ時期に、ポーランド侵攻が始まり、すぐにソヴィエト連邦、そしてナチス・ドイツに併合された。戦争の間、500人を超えるトラカイ地方のユダヤ人がナチスによって殺害された。1944年、テンペスト作戦 (Operation Tempest) で街は国内軍と赤軍パルチザンによって解放された。第二次世界大戦後、再びソ連に併合された。 1961年、城上階の再建と塔の建設が完成した。1960年12月21日にニキータ・フルシチョフの行った演説の結果、事業が停止することになった。ソ連の第一書記は、城の再建はリトアニアのかつての封建制度を賛美するものだと表明したのである。下階の事業は1980年代まで終わらなかった。完了したのは1990年代初め、リトアニア当局の手によってであった。今日、島城は主要観光地となり、オペラやコンサートといった多種の文化行事の会場となっている。
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