衰退と保護
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 08:36 UTC 版)
明治時代に入り合成染料が伝来すると、烏梅を用いた手間のかかる紅花染めは徐々に行われなくなり、烏梅の価格は暴落した。梅樹の手入れはおろそかになり、畑地に植えられていた梅は伐採されて他の作物に植え替えられていった。最盛期に10万本を誇った梅林は徐々に衰退してゆく。しかし、風光明媚な風景を求めて観光客はむしろ増えていった。月ヶ瀬梅林は徐々に一般の人々の観光地に変化していく。 一方、朽ちてゆく月ヶ瀬梅林を守るための保存活動が行われるようになった。上野町長を務めたことのある上野の事業家、田中善助は隣村の梅林を守るために「月瀬保勝会」を発足させた。しかし村民の意識の低さからか、梅林の伐採はおさまらず、月瀬保勝会の事業は頓挫した。 1889年、町村制施行により月瀬村が発足すると、奈良県知事税所篤や月瀬村長奥田源吉らは梅林の衰退を憂い、租税減免など、梅林保護の政策を実施した。熱意が功を奏し、月瀬村民は自主的に「月瀬保勝会」の運営を行うようになった。資金難から活発な事業を行えずにいたが、活動強化を目指し、1919年には「財団法人月瀬保勝会」として法人改組している。「財団法人月瀬保勝会」の設立と時を同じくして、月瀬村当局も梅林の保護に関心を持ち始め、政府に対して名勝指定への陳情を続けた。 以上の努力の結果により、1922年、当時の内務省は日本国が指定する初めての名勝に奈良公園、兼六園とともに「月瀬梅林」を指定した。 梅林の保護は軌道に乗り始めたかに見えたが、1937年ごろからの戦時統制の時代に突入すると食糧増産のために梅の木畑は半ば強制的に伐採され、耕作地に姿を変えた。そして、戦前は2万本といわれた梅の木は戦後は半分以下まで減少した。
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