衰退と他国への波及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 06:33 UTC 版)
「グランド・オペラ」の記事における「衰退と他国への波及」の解説
こうして隆盛を極めたグランド・オペラ様式も、ちょうどガルニエ座が創建された1875年頃にはその衰退がみられるようになってきた。 外的な要因としては、巨大化するばかりの舞台装置の維持・運営コスト(オペラ座は照明用のガス料金の減免交渉をしばしば政府と行っている)、歌手陣、合唱団の肥大化とそれに伴う芸術性の低下、1870年からの普仏戦争による混乱と、フランスの敗北による経済的疲弊、舞台関係者の相次ぐストライキ、1873年に当時のオペラ座だったル・ペルティエ劇場が火災で焼失、貴重な舞台装置や衣装、楽譜等を失ったこと、などが考えられる。 しかし、より大きな要因は、グランド・オペラそのものの芸術性に対する疑問であろう。ドイツでのワーグナー、イタリアでのヴェルディなどはオペラの芸術としての可能性をそれぞれの方法で追求していった作曲家たちだが、パリの作曲家たちは舞台効果の新奇性に頼るばかりで、結局のところ新たなものを生み出すことができなかった。 しかし、様式としてのグランド・オペラがまったく死滅したと考えるのもまた早計であろう。ワーグナーの『ニーベルングの指環』4部作、ヴェルディの『アイーダ』は、それぞれ彼らなりの方法でグランド・オペラの「壮大さ」を換骨奪胎した作品とみることもできるし、ロシアではムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』(1868年)などにもグランド・オペラの影響は顕著である。
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