衰退と再発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 17:04 UTC 版)
「ローザ・エスケナージ」の記事における「衰退と再発見」の解説
エスケナージは現在60代で彼女が40年以上前にその経歴を始めた頃からはギリシャの音楽シーンは大きく変わった。スミルネイコ(?zmirの音楽)とレベティコの人気は衰え、彼女もそのジャンルの他の名人達と同じく、村の祭りや他の小さな行事で時折登場するくらいまで格下げとなっていた。その頃数年は彼女は2, 3曲を録音していたが、それは往年の彼女の有名なヒット曲のカバーがほとんどで、小規模のアテネのレコード会社のためにしたものだ。 彼女の初期の作品に新たな関心が寄せられたのは1960年代後半になってのことだ。RCAがバイオリニストのディミトリス・マニサリスと共に(「サバ アマネス」を含む)彼女の4曲を2枚の45回転レコードにレコーディングしたが発売は限定的だった。しかしながら、1970年初期の軍の独裁の最終時期にこれらすべてが変わった。突然、国の若者達が過去の都市の歌に新しい興味を抱くようになり、数枚の重要なコンピレーションレコードが発売されたのだ。最も有名になったひとつが、レベティコ音楽の6枚組コレクションである「レベティキ イストリア」で、数万枚が売れた。ライムライトから離れて10年を経て、70代のローザ・エスケナージはふたたびスターとなった。 今回の10年を彼女の初期の経歴とはっきり切り離したのはテレビに広く登場したことだ。ローザはすぐに新しいメディアに順応し多くのショーに出演した。1973年に彼女は「ボウゾウキへ捧ぐ」(バシリス・マロス監督)という短い映画でドキュメンタリー出演し、1976年彼女はハリス・アレクシオウとテレビ特別番組に出た。そこではインタビューと歌だけでなく2, 3の出演場面も含まれていた。しかしながら当時でもローザは祖国のナイトクラブでの彼女のルーツを決して放棄せず、プラカのナイトクラブ「テメリオ」のライブショーに毎週出演していた。 当時まだ活動していた数少ない生き残りのレベティコ歌手の一人として、アーティストや音楽研究者達が彼女をスタイルを研究し始め、それが本物であることを認めた。このことがハリス・アレクシオウ(彼女は彼とはテレビに出演した)やグリケリアを含む歌手達の新世代に長く続く影響を与えることになる。悲劇と言えば、音楽家や学者は彼女の能力のみならず彼女の失われた音楽世界への洞察に引き付けられていたにもかかわらず一般の大衆の熱は低く、彼女を好奇心の対象と見なしていた。にもかかわらず、彼女は出演を続け、パトラスの都市で1977年9月彼女の最終のショーが催された。あらゆる年代のファンが彼女が歌い踊るのを見て過去の音楽の味わいに触れようと詰めかけた。
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