衰退と大森彦七の中興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 03:34 UTC 版)
しかしその後、鎌倉幕府の滅亡、中先代の乱とつづく混乱の中で、松山平野北東部の赤滝落城で大森長治、高井落城で大森春直の一族が滅亡し、その領地のほとんどを失うが、そのころ上京していた大森彦七盛長が足利尊氏に従って功績を挙げ、砥部・中山に所領を得た。おそらく松山平野一帯は守護河野氏に抑えられてしまっていたので、足利政権としてもそれを取り返すことが出来なかったために、松山平野の南部、砥部・中山に領地を与えたものと思われる。 なお、大森彦七の出自については色々といわれているが、上記のような家系であったことは砥部大森氏に強く意識されていたらしい。それは、大山祇神社に彦七の大太刀(国宝、無銘豊後友行、刃長六尺、茎二尺)と称するものを寄進した大森直治が、自らを大森源左衛門尉源朝臣直治と称しているし、砥部の千足を承久の勲功の地と称していることなどからわかる。
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